東学
東学は、李氏朝鮮末期の社会不安と対外危機のなかで生まれた朝鮮固有の宗教・社会運動である。創始者の崔済愚が1860年に啓示を得たとされる新宗教であり、儒教・仏教・道教・民間信仰などを折衷しつつ、西学(キリスト教)と西洋列強に対する警戒心を強く示した。教義は「人乃天」に象徴される平等思想と、道徳的修養を通じて民衆自身が救済されるという実践性を特徴とし、やがて農民層を中心に広がり、甲午農民戦争(東学の乱)の思想的基盤となった。
成立の背景
東学が成立したのは、対外的には列強の進出、国内的には重税と官僚の腐敗によって危機が深まった李氏朝鮮末期である。西洋宣教師の来航によりキリスト教が浸透し、これを「西学」と呼んで弾圧する一方、農民反乱や飢饉が続発した。崔済愚はこうした状況を「天地の道の乱れ」と捉え、在来の教えを再解釈して民衆を救う新たな教えとして東学を唱えたのである。
教祖崔済愚と教義の特色
崔済愚は「天主降臨」の啓示を受けたと主張し、天を人格的存在として信仰する一方、「人乃天」という標語で、人間一人ひとりの中に天が宿ると説いた。これは身分秩序が固定した社会において、民衆の尊厳を強調する教えであり、強い平等主義を帯びた。さらに東学は、外勢と結びついた西学を退ける「斥洋」の姿勢を取りつつ、内政の腐敗を糾す倫理運動でもあった。信徒は誦文を唱え、禁酒・禁賭博などの日常的実践を通じて自己修養を行うことを求められた。
組織と農民社会への浸透
東学は、各地の「接」と呼ばれる組織単位を通じて農村社会に浸透した。地方の有力農民や下級官僚が接主となり、教えを講じ、互助的な共同体を形成したことで、負債や重税に苦しむ小農にとって重要な支えとなった。女性や賤民出身者も受け入れられた点で、身分の枠を超えた民衆宗教として性格づけられる。こうしたネットワークは、のちに蜂起の際に動員基盤として機能し、地方から中央権力へ要求を突きつける力となった。
東学と甲午農民戦争
東学の信徒は、1894年に全羅道一帯で蜂起した甲午農民戦争の中心勢力となった。指導者全琫準らは、乱立する私利私欲の官吏を罷免し、土地と税制の公正化を求める綱領を掲げ、民衆の生活改善をめざした。同時に「斥倭斥清」を唱え、外勢の干渉を拒む姿勢を示したことは、壬午軍乱や甲申政変などに続く朝鮮半島の政治危機と結びついている。蜂起に対する朝鮮政府の出兵要請が日清両軍の介入を招き、やがて日清戦争へと発展した点で、東学運動は国際政治の転換点とも密接に関わっていた。
東学から天道教への展開
蜂起が鎮圧されたのちも、東学は地下で存続し、三代教主孫秉熙のもとで教団の近代化が進んだ。彼は日本や中国の動向を学びつつ教義を整理し、1905年に教団名を天道教へと改称した。天道教は宗教組織であると同時に民族運動の拠点となり、1919年の三・一独立運動では、多くの指導者が天道教系の人物で占められた。こうして東学は、宗教運動から近代的民族運動へと連続する流れの出発点として位置づけられる。
歴史的意義
東学は、在来思想の枠内にとどまりながらも、民衆の主体性・平等・民族独立を重んじる理念を提示した点で重要である。旧来の支配秩序を前提とする儒教倫理とは異なり、民衆自らが天と直接結びつき、社会改革を追求しうるという発想は、のちの帝国主義支配下における民族運動の精神的基盤となった。帝国主義下の朝鮮で展開した独立運動や農民運動を理解する際、宗教・社会改革・対外関係を結びつけたこの運動の性格を押さえることが不可欠である。