帝国主義下の朝鮮|列強支配と民族自立の模索

帝国主義下の朝鮮

帝国主義下の朝鮮とは、19世紀後半の朝鮮の開国から、1910年の韓国併合、さらに日本の植民地支配期を経て第2次世界大戦末期まで、列強の圧力のもとで政治・経済・社会構造が大きく変容した時期を指す概念である。この時期の朝鮮半島では、伝統的な王朝体制が揺らぐ中で、中国(清)・日本・ロシアなど周辺諸国に加え、西欧列強も関与し、主権と体制のあり方が外部から強く規定されていった。ここでは、その過程と特徴を政治・経済・社会・文化の諸側面から整理する。

開国と不平等条約体制

19世紀半ばまで朝鮮王朝は「小中華」を自任し、対外的には中国の冊封体制のもとで限定的な外交関係を維持していた。しかし、日本による軍事的圧力で生じた江華島事件を契機に、1876年に日本と日朝修好条規(江華条約)が締結され、朝鮮は事実上の開国に追い込まれた。この条約は、領事裁判権や関税自主権の欠如など、西欧列強と締結された不平等条約に類似する内容を持ち、続く江華条約関連の諸取り決めとともに、朝鮮の主権を大きく制約した。開国後、欧米列強も次々と通商条約を結び、港湾や都市に外国人居留地が形成され、朝鮮は帝国主義世界体制の周縁として組み込まれていったのである。

清・日本・ロシアの角逐

開国後の朝鮮では、旧来の宗主国である清と、新興勢力の日本が影響力を競い合った。1882年の軍乱である壬午軍乱では清軍が出兵し、朝鮮政府内でも保守的な「事大」路線が強まった。一方、近代化と自主独立を掲げる開化派は、1884年にクーデタである甲申政変を試み、日本の支援を受けつつ急進的改革を行おうとしたが、清軍の介入により失敗した。1885年には清日両国が朝鮮駐留軍を相互に撤兵することなどを定めた天津条約を結び、一時的な均衡が保たれたが、最終的には1894〜95年の日清戦争によって清の宗主権は否定され、日本が朝鮮への影響力を大きく拡大することになった。

大韓帝国の成立と日本の保護国化

日清戦争後、朝鮮は名目上は清から自立し、1897年には皇帝即位とともに国号を「大韓帝国」と改め、独立国家として近代国家建設を進めようとした。しかし、国内政治は王権をめぐる対立や改革の遅れに悩まされ、対外的にはロシアや日本など列強の干渉が続いた。20世紀初頭、日本は朝鮮半島支配をめぐってロシアと対立し、1904〜05年の日露戦争に勝利することで、列強から朝鮮に対する「優越的権益」を承認させた。その後、日本は伊藤博文を統監として派遣し、条約によって韓国の外交権を奪うとともに、警察・財政・軍事など主要部門を掌握し、1910年の韓国併合によって朝鮮は公式に日本帝国の植民地とされた。

植民地支配の政治体制

併合後の朝鮮には、朝鮮総督府と呼ばれる統治機関が設置され、総督には日本の現役陸海軍大将が任命された。総督府は立法・行政・司法・軍事をほぼ一手に握る強大な権限を持ち、武断統治と呼ばれる厳格な支配が行われた。朝鮮人による政治的結社や言論活動は厳しく取り締まられ、警察・憲兵・密偵網による監視体制が張り巡らされた。地方行政も日本人官僚や警察官が主導し、旧来の地方支配層は総督府支配の下に再編されていった。このように、政治体制の面で帝国主義下の朝鮮は、近代的官僚制を通じた集権的な植民地統治が徹底された地域であった。

経済構造の変化と植民地的搾取

経済面では、まず土地調査事業が実施され、土地の所有権が近代的な登記制度に組み込まれたが、その過程で多くの農民が伝統的な慣行的権利を認められず土地を失った。日本の財閥系企業や開発会社は、この土地を買収して大規模農場や鉱山、工場を経営し、朝鮮は日本市場向けの米や原料の供給地として位置づけられた。とくに米作農業の近代化と鉄道網の整備により、農産物の対日輸出は増大したが、多くの農民は高い地代と租税に苦しみ、小作化と負債の増大に直面した。工業部門でも、日本資本主導の軽工業・重工業が発展する一方、朝鮮人労働者は低賃金・長時間労働に従事させられ、経済成長の果実は植民地宗主国に偏って配分されたのである。

社会構造と人々の生活の変容

こうした政治・経済の変化は、朝鮮社会の身分構造と人々の生活を大きく変えた。士大夫層など伝統的エリートの多くは地位を失うか、日本帝国の下で官僚・専門職として再編され、一方で新たな都市中間層や労働者階級が形成された。農村では地主と小作農の格差が拡大し、生活困窮から都市への流入や日本本土への出稼ぎ・移住が進んだ。鉄道や電信など近代的インフラの整備は交通・通信を発達させたが、その利用・恩恵には階層差が存在し、全体として帝国主義下の朝鮮は、急速な近代化と深刻な社会的不平等が併存する社会となっていった。

文化・教育政策と同化の試み

日本は朝鮮支配を正当化するため、教育制度や言論統制を通じて同化政策を推し進めた。学校では日本語教育が重視され、朝鮮語や伝統文化は徐々に周縁化された。神社参拝の強制や皇民化運動は、朝鮮人を「皇国臣民」として組み込むことを目的としていた。また、新聞・出版・演劇などの文化活動も厳しい検閲を受け、植民地支配を批判する表現は抑圧された。一方で、近代教育を受けた知識人の間には、新しい学問や思想を通じて民族意識や近代的ナショナリズムを育む動きも生まれ、文化的な抵抗の場ともなった。

抵抗運動と民族独立運動

帝国主義支配に対して、朝鮮ではさまざまな形の抵抗運動が展開された。併合直後から、農民や旧軍人、宗教団体を中心とする義兵闘争が各地で起こり、武装蜂起によって日本軍・警察に抵抗した。1919年には、民族自決の波とパリ講和会議への期待を背景に、都市と農村において大規模な独立運動である三・一運動が起こり、多数の民衆が「独立万歳」を叫んで蜂起した。この運動は武力弾圧によって鎮圧されたものの、その後は亡命政府や学生運動、文化運動へと形を変えながら、朝鮮民族の独立要求を国内外に訴え続けた。こうした政治・社会・文化の諸運動は、帝国主義体制に組み込まれながらも、それを克服しようとする朝鮮人の主体的な営みとして理解されるべきである。