甲申政変
甲申政変は、1884年(高宗21年)12月に朝鮮の首都漢城で発生した近代改革派のクーデターである。近代化と自主独立をめざした甲申政変は、日本の支援を受けた開化派が、清国に依拠する保守派・事大党政権を一挙に打倒しようとして起こしたが、清国軍の素早い介入によってわずか3日間で失敗に終わった。この事件は、朝鮮の近代化運動の転機であると同時に、日本と清国が朝鮮半島をめぐって対立を深めていく過程を象徴する出来事である。
朝鮮の開国と列強の進出
19世紀後半、朝鮮は長く維持してきた鎖国的な伝統秩序を維持しつつも、列強の圧力に直面していた。1876年には日本とのあいだで江華島事件を契機として江華条約(日朝修好条規)が締結され、不平等条約に近い形で開国を余儀なくされた。これにより開港場には日本商人が進出し、さらに清国も宗主権を主張して朝鮮への関与を強めた。朝鮮宮廷内では、清国に依拠して現状維持を図る保守勢力と、西欧や日本をモデルに体制改革を志向する開化派が対立を深めていった。
開化派と事大党の対立
開化派の中心は、金玉均・朴泳孝ら若い官僚や知識人であった。彼らは、日本での留学や視察を通じて立憲政治・近代官僚制・軍制改革などを学び、朝鮮でも急進的な近代化と王権の下での中央集権国家建設を構想していた。これに対し、閔妃一族に支えられた保守派は、清国との宗藩関係の維持を前提とする「事大」を外交原則とし、急激な改革が社会秩序を乱すことを警戒した。1882年の壬午軍乱では旧式軍人の反乱が起こり、日本公使館が襲撃される一方、清国軍が鎮圧に介入したことで、宮廷内の勢力は清国寄りに傾き、開化派は大きく失脚していた。
クーデター計画と勃発
このような政治状況のなかで、開化派は一挙挽回を狙って武力クーデターを計画した。1884年12月、漢城に新設された郵政局の落成祝賀宴に高官たちが集まる機会を利用し、少数精鋭の近代式軍隊と在朝日本公使館警護隊の支援を得て、政権中枢を制圧する計画が立てられた。事件当日、開化派は祝宴の場で火災・騒乱を引き起こして混乱に乗じて要人を殺害し、国王高宗と王妃を日本軍の警護の下で宮城内に「保護」する形をとり、臨時政権の樹立を宣言した。この時点で甲申政変は一時的には成功し、新政権は改革綱領の発布に着手した。
改革構想と短期政権
開化派政権が掲げた綱領は、封建的身分制度の廃止、税制・財政機構の近代化、官僚制の整備、近代軍制の確立、商業と産業の振興など、朝鮮社会を急速に近代国家へと転換させる内容であった。また、清国の干渉を排除し、日本などとの対等な外交関係を構築することで、朝鮮の完全な自主独立を実現しようとした点も特色であった。しかし、これらの構想はまだ理念的段階にとどまり、地方社会への浸透や軍事的基盤の整備も十分ではなかったため、政変直後から不安定な状況に置かれていた。
清国軍の介入と甲申政変の失敗
最大の誤算は、清国の迅速な軍事介入であった。漢城近郊に駐屯していた清国軍は、保守派の要請と自らの宗主権維持の思惑からただちに出動し、日本軍警護隊とのあいだで市街戦が発生した。兵力と準備の面で優位にあった清国軍は短時間で宮城周辺を掌握し、日本公使館は焼失、日本人居留民にも多数の死傷者が出た。開化派の臨時政権は事実上崩壊し、指導者の一部は日本へ亡命、残された者は処刑や投獄に追い込まれた。このように甲申政変はわずか3日で終息し、朝鮮の自主的近代化は大きな挫折を経験することになった。
日本・清国・朝鮮関係への影響
甲申政変の失敗は、東アジア国際関係にも重大な影響を及ぼした。まず、日本は公使館焼失や民間人犠牲を理由に朝鮮政府に対し賠償と謝罪を求め、1885年の漢城条約で巨額の賠償金と謝罪文書を獲得した。他方、清国とのあいだでは、朝鮮半島への出兵・駐留を相互に制限するため、天津条約が結ばれた。この条約では、朝鮮への兵力派遣の際に事前通告を行うことが取り決められ、朝鮮が日清両国の共同干渉の対象であることが明文化された形となった。清国は従来どおり宗主権を主張し、朝鮮内政への影響力を一層強め、日本はそのなかで次第に武力を背景とする影響拡大の道を模索していく。
甲申政変の歴史的意義
甲申政変は、実際には失敗に終わった短期クーデターであるが、朝鮮近代史においては重要な転換点として位置づけられる。第一に、近代国家建設をめざす急進的なエリート知識人が、日本や西欧の制度を参照しながら自主独立と改革を構想した最初期の試みであった点で意味が大きい。第二に、事件の過程で日本と清国が直接軍事的に衝突し、朝鮮が両国の勢力争いの舞台として扱われたことは、のちの日清戦争への伏線となった。第三に、開化派の挫折は、国内社会における改革支持基盤の弱さと、列強の力学を踏まえた現実的戦略の欠如を示し、その反省は後の独立運動や改革運動にも影響を与えた。以上のように甲申政変は、朝鮮の近代化と東アジア国際秩序の変容を理解するうえで不可欠の事件である。