未回収のイタリア
未回収のイタリアとは、イタリア統一後もなお他国の支配下に残り、イタリア民族の国家に「回収」されていないと考えられた地域を指す概念である。とくにオーストリア帝国・オーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったトレンティーノや南チロル、港湾都市トリエステ、イストリア半島やダルマチア沿岸部などが代表的であり、これらの地域はイタリア民族主義の立場から「民族国家の完成」を妨げる存在とみなされた。この概念は、統一後のイタリア王国の外交や国内政治、とりわけ第一次世界大戦への参戦決定や戦後の不満、さらにはファシズム台頭と深く結びついている。
概念の成立とリソルジメント後の状況
未回収のイタリアという表現は、イタリア民族の統一運動リソルジメントが一応の成功を収めた後に広まった。統一を達成したサヴォイア家の王国は、イタリア統一戦争を通じて多くのイタリア語話者の居住地域を領土としたが、アルプスやアドリア海沿岸にはなおオーストリア側に残された地域が多かった。ナショナリズムが高揚するなかで、これらの地域を統一の「未完部分」とみなす言説が生まれ、その象徴的な呼称として未回収のイタリアが用いられるようになったのである。
対象となった主な地域
未回収のイタリアとされた地域には、言語・民族構成や歴史的背景の異なるいくつかの地方が含まれていた。そこではイタリア語話者とともにドイツ語話者や南スラヴ系住民も混在しており、単純に「イタリア人の居住地」とは言い切れない複雑な事情があったが、民族自決を掲げるイタリアの民族主義運動は、これらの地域を歴史的・文化的に「イタリア世界」の一部と主張した。
トレンティーノと南チロル
アルプス山麓のトレンティーノおよび南チロルは、神聖ローマ帝国以来オーストリア領と結びついてきた地域である。トレンティーノにはイタリア語話者が多く、イタリア側は歴史的な文化圏の一体性を理由に領有を主張した。他方、ボルツァーノ周辺の南チロル北部はドイツ語話者が多数を占め、イタリアへの併合はオーストリア側だけでなく地元住民の反発も招いた。にもかかわらず、イタリア民族主義者にとってこれらの地域は北方国境線をアルプス山脈まで押し上げるうえで不可欠と考えられた。
トリエステとイストリア・ダルマチア
アドリア海の重要港湾都市トリエステは、オーストリア帝国の「海への出口」として経済的に発展しており、多数のイタリア語話者とスロヴェニア人が混住していた。イストリア半島やダルマチア沿岸部も同様に多民族地域で、都市部にはイタリア系住民が多く、内陸部には南スラヴ系住民が多かった。イタリア側はローマ時代以来の歴史的継続性と都市文化を根拠に、これらの地域を未回収のイタリアと位置づけ、アドリア海を「イタリアの海」とする構想を唱えた。
イタリア統一と領土問題の継続
イタリアがフランスと協力してオーストリアと戦った第二次イタリア統一戦争では、ロンバルディアの獲得に成功したものの、ヴェネツィア地方やトレンティーノなどは依然としてオーストリアに残された。その後の普墺戦争を経てヴェネツィア併合が実現するが、トレンティーノやトリエステはなおオーストリア領のままであった。また統一過程では、フランスへの代償としてニースやサヴォイア地方が割譲されており、サヴォイア家が王位を得る代償として領土を失ったという記憶も、領土問題への敏感さを高めた。
ローマ教皇領占領と「民族国家の完成」
統一運動は、ガリバルディのシチリア遠征やシチリア占領、中部諸邦の併合などを経て進展し、最終的にはローマ教皇領占領によってローマが首都となった。こうして形式上の統一は完成したが、国家指導層や民族主義者の意識においては、トレンティーノやトリエステなど未回収のイタリアの存在が「真の民族国家」成立を妨げていると考えられ続けた。この問題は、外交政策や軍備拡張の正当化にもしばしば利用された。
第一次世界大戦とロンドン密約
第一次世界大戦勃発時、イタリアは三国同盟の一角にあったが、当初は中立を宣言した。その後、協商諸国との間で秘密協定であるロンドン密約を結び、戦勝後にトレンティーノ、南チロル、トリエステ、イストリア、ダルマチアの一部など未回収のイタリアを獲得する約束を取り付けたとされる。これにより参戦は「民族解放戦争」として国内に訴えられ、徴兵や戦時動員の正当化に強く用いられた。
戦後講和と「勝利なき勝利」
戦後、サン・ジェルマン条約やラパッロ条約などの講和条約によって、イタリアはトレンティーノや南チロル、トリエステ、イストリアの大部分を獲得し、形式上は多くの未回収のイタリアが「回収」された。しかしダルマチア沿岸の大半は新たに成立したユーゴスラビア王国に帰属し、イタリアが期待したほどの領土拡大は実現しなかった。この結果、「勝利はしたが約束された領土を得られなかった」という「勝利なき勝利」の不満が広がり、退役軍人や民族主義者の間で過激な運動が生まれた。
ファシズムと未回収のイタリア
戦後の不満と社会不安のなかで、ムッソリーニ率いるファシスト党は未回収のイタリアの問題を巧みに利用した。ダヌンツィオによるフィウメ占拠事件はその象徴的な例であり、講和条約への不満やイタリア人居住地域の「保護」を掲げて武装行動が正当化された。ファシズム政権は、アドリア海やバルカン半島への影響力拡大を目指しつつ、ガリバルディらリソルジメントの英雄像を自らの前史として取り込み、領土拡張政策を民族統一運動の延長として語ったのである。
歴史的意義
未回収のイタリアは、一見するとイタリア人居住地域の帰属問題にすぎないように見えるが、実際には近代ヨーロッパにおける民族自決と多民族帝国の解体、国境線の画定という広い文脈の中で理解されるべき概念である。トレンティーノやトリエステ、イストリア、ダルマチアといった地域は、多言語・多民族が共存する空間であり、どの国家に属すべきかを一義的に決めることは困難であった。にもかかわらず、民族国家の論理が優先された結果、国家間の対立や少数民族問題が激化し、やがて第二次世界大戦へとつながる緊張の一因ともなった。サヴォイア王家を中心とするイタリア王国の歩みとともに、この概念はイタリア近現代史を理解するうえで不可欠な鍵概念であると言える。