イタリア統一戦争|イタリア国家統一への戦い

イタリア統一戦争

イタリア統一戦争とは、19世紀中葉にサルデーニャ王国を中心とするイタリアの諸勢力が、主としてオーストリア帝国と戦いながら国家統一を実現していった一連の戦争を指す概念である。狭義には1859年の第二次イタリア独立戦争のみをさす場合もあるが、広義には1848年の第一イタリア独立戦争、1866年の第三イタリア独立戦争、さらに1870年のローマ併合までを含めて理解されることが多い。これらの戦争は、民族主義と自由主義の高揚の中で展開したリソルジメント(イタリア統一運動)の核心的な出来事であり、イタリア王国の成立と領土的一体化を決定づけた。

ウィーン体制とリソルジメントの進展

ナポレオン戦争後の1815年、ウィーン会議によってヨーロッパの秩序は再編され、イタリア半島はふたたび分裂状態に置かれた。ロンバルディアとヴェネツィアはオーストリア帝国の直轄領となり、その他の諸邦もオーストリアの強い影響下に置かれた。こうした体制に対して、イタリア人の間では民族的統一と自由を求める運動が高まり、これが総称してリソルジメントと呼ばれる。思想家マッツィーニは秘密結社青年イタリアを組織し、共和的な統一を訴えたが、一方で立憲君主制を掲げるサルデーニャ王国も、のちに統一運動の中心勢力として台頭していく。

第一イタリア独立戦争(1848〜1849年)

1848年、ヨーロッパ各地で「諸国民の春」と呼ばれる革命の波が起こると、ロンバルディアやヴェネツィアでもオーストリア支配に対する蜂起が発生した。これを好機とみたサルデーニャ王国の国王カルロ=アルベルトはオーストリアに宣戦し、第一イタリア独立戦争が始まった。当初イタリア側は優勢に立ったが、やがてクストーザやノヴァーラの戦いで敗北し、カルロ=アルベルトは退位してヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が即位した。ローマでは一時的にローマ共和国が樹立され、ヴェネツィアでもヴェネツィア蜂起が続いたが、最終的にはいずれも鎮圧され、統一は持ち越された。

第二イタリア独立戦争(1859年)とフランスの介入

統一の主導権を握ったのは、サルデーニャ王国の首相となったカヴールである。彼は現実的な外交と国内改革を進め、フランス帝皇ナポレオン3世との提携によってオーストリアに対抗しようとした。1858年、カヴールはナポレオン3世とプロンビエール密約を結び、オーストリアとの戦争に際してフランスの軍事援助を取り付けることに成功する。1859年、オーストリアがサルデーニャ王国に最後通牒を突きつけて開戦に踏み切ると、ナポレオン3世は約束どおり参戦し、マジェンタやソルフェリーノの戦いで連合軍は勝利した。その結果、オーストリアはロンバルディアを失い、これはイタリア統一に向けた大きな前進となった。

千人隊遠征とイタリア王国の成立

第二イタリア独立戦争の余波の中で、中部イタリア諸国では住民投票によってサルデーニャ王国への併合が進んだ。南部では義勇軍指導者ガリバルディが「千人隊」を率いてシチリア島に上陸し、両シチリア王国を打倒してサルデーニャ王国への合流を実現する。この過程で共和主義的な潮流と立憲君主制を志向する勢力とのあいだには緊張もあったが、最終的には妥協が成立し、1861年、トリノにおいてイタリア王国の成立が宣言された。すでに領土的には半島の大部分が統一されていたが、ヴェネツィアとローマはなおイタリアの支配下にはなく、イタリア統一は未完成の段階にとどまっていた。

第三イタリア独立戦争(1866年)とヴェネツィア併合

1866年、プロイセンとオーストリアの対立が深まり普墺戦争が勃発すると、イタリア王国はプロイセンと同盟を結び、オーストリアに宣戦して第三イタリア独立戦争を開始した。イタリア軍はクストーザの戦いやリッサ海戦で敗北し軍事的には芳しい成果を挙げられなかったが、戦争そのものはプロイセン優位のうちに終結し、講和条約の結果、オーストリアはヴェネツィアを放棄した。こうしてヴェネツィアはイタリア王国に編入され、北イタリアの統一はほぼ完成した。

ローマ併合と統一の完了(1870年)

残された最大の課題は、教皇領としてフランス軍の保護下にあったローマの帰属問題であった。イタリア政府はローマを首都とすることを目指したが、カトリック世界との対立を避けるため慎重な姿勢をとり続けた。転機となったのは1870年の普仏戦争であり、ナポレオン3世の敗北によってフランス軍がローマから撤退すると、イタリア軍はローマ近郊のポルタ・ピアから進入して教皇領を占領した。住民投票を経てローマはイタリア王国に併合され、以後ローマは新しい首都となる。こうして一連のイタリア統一戦争は事実上の終結を迎え、半島の政治的統一はほぼ完成したのである。

イタリア統一戦争の歴史的意義

イタリア統一戦争は、19世紀ヨーロッパにおける民族国家形成の一例として重要な位置を占める。同時期のドイツ統一と同様、外部勢力であるオーストリアの影響力を排除しつつ、国内諸勢力の妥協によって王国としての統一国家が成立した点に特徴がある。その過程では、共和主義的なマッツィーニの潮流や急進的な義勇軍運動、君主国家サルデーニャ王国の現実外交が交錯し、最終的にはヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を国王とする立憲君主制が選択された。また、第二共和国崩壊後のフランスやドイツ統一と連動して国際秩序も変容し、ウィーン体制に象徴される旧来の秩序は決定的に弱体化した。一連の戦争は、近代ヨーロッパにおける民族自決・国民統合のダイナミズムを理解するうえで、欠かすことのできない歴史的事件である。