サルデーニャ王国|イタリア統一を導く王国

サルデーニャ王国

サルデーニャ王国は、イタリア半島北西部のピエモンテとサルデーニャ島を中心に成立し、近世から近代にかけてイタリア政治の主役となった王国である。本来は中世以来の島嶼王国であったが、近世にはトリノを拠点とするサヴォイア家の国家となり、その枠組みを通じて19世紀のイタリア統一が進展した。本稿ではサルデーニャ王国の成立、統治構造、近代改革とリソルジメントにおける役割を概観する。

成立と領域の変遷

中世のサルデーニャ王国は、ローマ教皇やアラゴン王国の支配を受けつつ、地中海世界の一角を占める島嶼王国として存続した。1718年のロンドン条約と1720年のハーグ条約により、シチリア島を失ったサヴォイア家が代償としてサルデーニャ島を獲得し、トリノを首都とするサヴォイア朝サルデーニャ王国が成立した。以後、政治の中心はサルデーニャ島ではなくピエモンテなど大陸部に移り、王国はイタリア北西部の領土国家として再編された。

サヴォイア家の支配と統治構造

サヴォイア朝サルデーニャ王国は、封建的身分秩序と近世絶対主義が結びついた君主国家であった。王は官僚機構と常備軍を整備し、ピエモンテ貴族や聖職者に特権を与える一方、農民には重税と軍役が課された。大陸部と島嶋部では法律や慣習が異なっていたが、トリノ官僚制は中央集権化を進め、のちのイタリア王国行政の原型となる官僚国家を形成した。経済面では、ピエモンテで農業と軍需産業が発展し、ジェノヴァ編入によって地中海貿易への足場も得た。

ウィーン体制と保守的復古

ナポレオン支配の崩壊後、ウィーン会議は旧体制の回復を決め、サヴォイア家にはジェノヴァが与えられた。これによりサルデーニャ王国は、ピエモンテ・リグリア・サルデーニャ島を統合する有力国家となり、オーストリア帝国と並ぶイタリア半島の大国として位置づけられた。他方で、王政は検閲強化と警察権の拡大により自由主義運動や秘密結社カルボナリの蜂起を弾圧した。この抑圧と抵抗の経験が、のちに展開するリソルジメントの土壌となった。

カルロ=アルベルトの改革と憲法制定

1831年に即位したカルロ=アルベルトは、当初は保守的であったが、1840年代には行政・司法改革や産業振興を進め、近代化に踏み出した。1848年の革命の波の中で、彼はアルベルティーノ憲章(サルデーニャ憲法)を公布し、二院制議会を持つ立憲君主制へ移行した。この憲法は後のイタリア王国でも基本法として用いられた。またサルデーニャ王国は第一次イタリア独立戦争でオーストリアと戦ったが、ロンバルディア解放の試みは敗北に終わった。

リソルジメントとイタリア統一の中心

マッツィーニ青年イタリアの共和主義運動、1849年のローマ共和国ヴェネツィア蜂起などの革命が鎮圧されるなかで、立憲君主国サルデーニャ王国は、現実的な統一の核として重みを増した。カヴールの主導で王国はフランスと同盟してオーストリアと戦い、ロンバルディアなど北イタリアを獲得し、住民投票によって中部イタリア諸国を編入した。さらにガリバルディが南イタリアを制圧すると、その領土もサルデーニャ王国に合流し、統一王国の骨格が整えられた。

イタリア王国への移行

1861年、トリノで開かれた国会は、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を王とするイタリア王国の成立を宣言し、形式上サルデーニャ王国は消滅した。しかし王位・憲法・官僚機構・軍隊など国家の中枢はサヴォイア朝サルデーニャ王国の延長であり、その枠組みがイタリア全土へ拡大したと理解される。こうしてサルデーニャ王国は、リソルジメントの主導国家としてイタリア統一イタリアの統一を進め、ヨーロッパにおける近代国民国家形成の一例となった。