カヴール|イタリア統一を導いた政治家

カヴール

カヴール(Camillo Benso di Cavour, 1810-1861)は、19世紀イタリアの自由主義的政治家であり、リソルジメントと呼ばれるイタリア統一運動の中核を担った人物である。サルデーニャ王国の政治を主導し、内政・外交の両面からイタリア半島の諸国家を統合し、1861年のイタリア統一とイタリア王国成立に決定的な役割を果たした。現実的な外交と経済近代化を重視する姿勢から、急進的な共和主義者マッツィーニや行動家ガリバルディとは一線を画す穏健派指導者として理解されることが多い。

生涯と出自

カヴールは1810年、サヴォイア家に仕えるピエモンテ貴族の家に生まれ、トリノで育った。若くしてサルデーニャ王国軍に入隊するが、軍務に飽き足らず、ヨーロッパ各地を旅行してイギリスやフランスの政治・経済・社会を観察した。とくにイギリスの議会政治と産業社会に強い関心を抱き、これらをピエモンテに導入することを構想したとされる。帰国後は農業経営や銀行業にも関わり、技術革新と市場拡大を通じて自らの領地を近代化しながら、実務家・論客として頭角を現した。

政治思想と内政改革

カヴールは絶対主義を批判しつつも急進的共和制には慎重で、立憲君主制と議会政治を軸とする自由主義的秩序を理想とした。1848年の革命ののち、サルデーニャ王カルロ=アルベルトが発布した憲法(スタトゥート)を基盤に、貴族とブルジョワジーの妥協による近代国家建設を進めようとしたのである。1852年に首相に就任すると、鉄道建設、関税引き下げ、商業条約の締結、農業振興など経済近代化政策を大胆に推進した。またカトリック教会の特権縮小や修道院財産の世俗化を進め、世俗国家としてのサルデーニャ王国を強化した点も重要である。

外交戦略とクリミア戦争

カヴールの特色は、イタリア問題をヨーロッパ列強外交の枠組みに組み込んだ点にある。オーストリアがロンバルディアやヴェネトを支配し続ける状況では、イタリア統一は列強の同意なしに達成できないと判断したカヴールは、イギリスやフランスと協調する道を選んだ。1855年、サルデーニャ王国軍をクリミア戦争に派遣し、英仏とともにロシアと戦うことで、サルデーニャを「列強の一員」として国際舞台に押し上げたのである。戦後のパリ会議では、彼はイタリアの分断とオーストリア支配の不当性を訴え、イタリア問題を国際政治上の重要課題として認識させることに成功した。

対オーストリア戦争と領土拡大

イタリア統一の鍵は、北イタリアにおけるオーストリアの支配を打破することにあった。カヴールは1858年、ナポレオン3世との間でいわゆるプロンビエール密約を結び、オーストリアとの戦争にフランスの軍事支援をとりつけた。1859年の戦争では、マジェンタやソルフェリーノの戦いで仏サ連合軍が勝利し、ロンバルディアがサルデーニャ王国に割譲された。この動きに呼応して中部イタリア諸公国では住民投票による併合運動が起こり、トスカナやパルマなどが次々とサルデーニャ王国への編入を決定した。こうしてカヴールは外交・軍事・民意を組み合わせた手法で王国の版図を大きく拡大した。

マッツィーニ・ガリバルディとの関係

カヴールは、共和主義者青年イタリア運動の指導者マッツィーニや義勇軍指導者ガリバルディと、イタリア統一という最終目標を共有しつつも、その手段と体制構想をめぐってしばしば対立した。マッツィーニやガリバルディが民衆蜂起や共和政を重視したのに対し、カヴールはサヴォイア家を君主とする立憲王国としての統一を目指し、急進的な社会改革やローマ共和国の再建には否定的であった。1860年にガリバルディが南イタリア遠征で両シチリア王国を制圧した際も、カヴールはフランスや教皇領との衝突を避けつつ、サルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世による併合に結びつけるよう慎重に調整した。

イタリア王国成立と晩年

1861年、北部から南部に至る広大な地域が統合され、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を国王とするイタリア王国が成立した。この新王国の初代首相となったのがカヴールであり、トリノを中心とした王国の制度を半島全体に拡張する難しい作業に着手した。しかし同年、病に倒れて51歳で急逝し、ローマやヴェネツィアを含めた完全な統一を見ることなくその生涯を終えた。後継政権は、教皇領やヴェネツィア蜂起などを経てローマ併合へと進み、ローマ共和国の地は最終的に王国の首都となるが、その過程でもカヴールが築いた外交路線と自由主義的枠組みは大きな指針となった。

歴史的評価

カヴールは、イタリア統一の三巨頭としてイタリア統一史に語られることが多く、行動の人ガリバルディ、思想家マッツィーニと並んで「現実主義の政治家」と位置づけられる。彼は武力だけでも民族感情だけでもなく、外交と議会政治、経済近代化を組み合わせることで統一を成し遂げようとした点に独自性がある。その一方で、農民層や都市労働者の社会問題に十分応えられなかったこと、南北格差を残したまま統一を急いだことなどは批判の対象ともなっている。それでもなお、サヴォイア朝イタリアの枠組みを設計した立憲君主制の建築家として、またサルデーニャ王国を列強外交の舞台へと押し上げた戦略家として、カヴールの名は近代イタリア史において重要な位置を占め続けている。