サヴォイア
サヴォイアは、中世アルプス西部のサヴォワ地方に起源をもつ王家であり、のちにピエモンテ・サルデーニャを支配し、最終的にはイタリア王国の王家となったヨーロッパの王朝である。アルプスの峠道と交易路を押さえる地方領主から出発し、神聖ローマ帝国やフランスとのあいだで巧みに勢力を伸ばし、近代にはイタリア統一運動であるリソルジメントの中心的存在となった。第二次世界大戦後の王政廃止まで、サヴォイアはイタリア国家の形成と変容に深く関わり続けた王家である。
起源と中世の発展
サヴォイア家の起源は、おおむね11世紀頃、アルプス西部サヴォワ地方の在地領主にさかのぼるとされる。彼らはローヌ川流域とアルプス峠を結ぶ交通の要衝を押さえ、通行税や関税から収入を得て勢力を拡大した。神聖ローマ帝国の諸侯として伯位・公位を獲得し、帝国とフランス王国の緩衝地帯に位置しながら、両者の対立や婚姻関係を利用して領土を拡大していったのである。
サヴォイア公国とピエモンテ支配
15〜16世紀になると、サヴォイア家はイタリア側のピエモンテ地域を支配下におさめ、サヴォイア公国はアルプスをまたぐ領域国家として成長した。フランスとハプスブルク家のあいだで戦争が繰り返されるなか、公国はたびたび侵攻を受け、一時的に領土を失うこともあったが、巧みな外交と同盟関係によって再び地位を回復した。首都はやがてサヴォワ地方のシャンベリから、軍事・政治の拠点として重要性を増したトリノへと移され、のちのイタリア国家の中心となる基盤が形づくられた。
サルデーニャ王国の王家へ
18世紀初頭、スペイン継承戦争の講和の結果、サヴォイア家はイタリア南部のシチリア王位を得たが、その後の再調整によってシチリアとサルデーニャ島を交換し、最終的にサルデーニャ王位を保持することになった。こうしてサヴォイア公国を核としつつ、サルデーニャ島を王号の根拠とするサルデーニャ王国が成立し、サヴォイア家は正式に「国王」としてヨーロッパ列強の一角に加わったのである。
憲法と対オーストリア戦争
19世紀半ば、自由主義と民族運動の高まりの中で、サヴォイア家はイタリアにおける立憲君主制と民族統一の担い手として台頭した。国王カルロ=アルベルトは1848年に「アルベルティーノ憲章」と呼ばれる憲法を発布し、議会制と市民的自由を一定程度認める体制を整えたうえで、ロンバルディアやヴェネトを支配するオーストリア帝国に対して戦争を仕掛けた。この対オーストリア戦争は第一次・第二次と続き、のちにイタリア統一戦争として総称される一連の軍事行動の出発点となった。
カヴールと統一外交
カルロ=アルベルトの後を継いだサヴォイア家の国王のもとで、宰相となったカヴールは、イギリスやフランスとの連携を重視する現実主義的な外交・内政を展開した。クリミア戦争への参戦を通じて国際的な発言権を高め、フランス皇帝ナポレオン3世との交渉によってオーストリアに対する共同戦争を実現させたのである。この過程でサヴォイア家の支配領域は北イタリア全域に広がり、トスカナやエミリアなど諸公国の併合によって、統一国家の中核が形成された。
イタリア王家としてのサヴォイア家
1861年、トリノを中心とする王国は、南部諸地域の併合を経て「イタリア王国」を名乗り、サヴォイア家の国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が初代イタリア王として即位した。かつてローマ教皇領であったローマ市を1870年に併合することで、イタリア統一は名実ともに完成し、サヴォイア家はイタリア民族国家の王家として位置づけられた。以後、ウンベルト1世・ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と王位が継承され、王家は立憲君主として政治に一定の影響力を保ち続けた。
ファシズムと王制廃止
20世紀に入ると、サヴォイア家はイタリアの政治的激動と切り離せない存在となる。とくにヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の治世下で、ムッソリーニ率いるファシスト政権が成立し、国王はその成立を認める形で独裁体制を容認した。第二次世界大戦での敗北後、王家は戦争責任とファシズム協力の批判にさらされ、1946年の国民投票により王政廃止と共和政移行が決定された。これにより、サヴォイア家はイタリア王位を喪失し、男性王族は長く国外追放の措置を受けることになった。
王家のその後と歴史的評価
王政廃止後も、サヴォイア家は名目上の王位請求者として存続し、亡命先で一族の系譜が保たれてきた。21世紀に入ると、イタリア国内への帰還が認められ、一族の存在は象徴的なものとなっている。歴史的には、アルプスの地方領主から出発して近代民族国家の王家へと成長し、サヴォイア家の歩みそのものがイタリア国家形成の軌跡を体現していると評価されることが多い。一方で、ファシズム期の対応や戦争責任をめぐっては批判も根強く、サヴォイアの名は、イタリア近現代史の光と影の両面を象徴する存在として語られている。