完顔阿骨打|女真を率いて遼を破り金を建国

完顔阿骨打

完顔阿骨打(1068-1123)は、女真族の指導者であり金の初代皇帝(金太祖)である。1114年に遼への反乱を開始し、1115年に会寧(上京会寧府)で国号「金」を建てた。機動力に優れた騎兵と部族連合の求心力を糾合し、遼の支配体制を北方から崩した点に特色がある。軍政組織として猛安・謀克制を整備し、征服地の統治に向けて女真・漢人の官僚層を並立させた。宋とは「海上の盟」により対遼協力を取り付けたが、遼滅亡後の帰属や分配をめぐって緊張が高まり、以後の中原情勢は大きく動いた。

出自と時代背景

阿骨打は完顔部の出身で、黒水靺鞨以来の系譜を引く女真諸部の有力者である。11世紀後半、遼の辺境統治は圧政・徴発・交易規制の硬直化により綻びを見せ、北方の資源・交易ルートをめぐる摩擦が増大した。阿骨打は狩猟・騎射に通じた武力と調停力で周辺部族を糾合し、部族会議を通じて戦役の方針を定めるなど、軍事的リーダーシップと政治的正統性を段階的に確立した。

遼への蜂起と勝利の要因

1114年の蜂起は、遼の辺境諸州に対する奇襲と補給線の遮断から始まった。阿骨打は冬営・春機の転換期を突いて出撃を重ね、軽装騎兵で遼軍主力を分断した。戦場選択においては湿地・凍土の地形を味方につけ、敵の重装備を機動で翻弄したことが勝因である。さらに、服属と保護を条件とした寛大な処置で豪族を取り込み、兵站には交易ネットワークを活用して冗長性を確保した。こうして遼の中核領域へ圧力を強め、契丹系支配の求心力を奪っていった。

金の建国と皇帝即位

1115年、阿骨打は会寧で即位して金太祖となり、国号「」を掲げた。王権は部族合議の伝統を残しつつも皇帝権へ集中し、勅令・軍令の体系化が進んだ。対外的正統性の表明として、皇帝称号・年号の採用や天命観の導入が行われ、漢地の制度言語を受容することで多民族支配の枠組みが整えられた。これにより、金は征服政権としての即応性と、定住地を治める官僚制の両立を志向することになった。

制度改革と軍政組織

阿骨打期の核心は、軍政一体の編成である猛安・謀克制の整備と、文治のための人材登用であった。完顔希尹らの主導で女真文字が編纂され、命令伝達や租税・軍役の台帳管理が効率化した。さらに、漢人官僚を登用して条例・章程を整え、在地の里甲や市舶の管理にも着手した。以下の要点にその骨子が示される。

  • 猛安・謀克制:軍団・基層単位の二層編制により、戦時の動員と平時の治安・徴発を統合する。
  • 在地支配:旧遼領では戸籍と租税の再編を進め、豪族層の自立を抑えつつ協力を引き出す。
  • 文字・文書:女真文字の制定により政令の標準化を進め、多言語統治の実務基盤を確立する。

猛安・謀克制の骨格

猛安はおおむね数千規模の戦闘単位、謀克はその下位の数百規模の単位で、血縁・地域・戦功を織り合わせた編成である。これは部族軍の即応性を保ったまま、俸給・戦利分配・責任体系を明確化する工夫であった。阿骨打は功序を厳格にし、叛服の線引きを明示することで指揮命令系統を安定させた。

対遼戦略の展開と遼の崩壊

金軍は北方の根拠地から扇状に侵攻し、遼の軍事・交通の要衝を制圧していった。遼朝廷は内紛と動員の遅滞に悩み、主力の集結前に各個撃破を許した。阿骨打は補給の連接点を次々に押さえ、遼廷の脱出と政権中枢の瓦解を促した。遼(契丹)は最終的に1125年に滅ぶが、阿骨打自身は1123年に没しており、決着は後継の体制に委ねられた。

宋との関係と「海上の盟」

阿骨打期、金は南のと「海上の盟」を結び、対遼協力と領土分配の原則を確認した。宋は長年念願の燕雲十六州回復を期したが、実際の引渡しや防衛線の設定をめぐって齟齬が生じ、同盟関係は脆弱であった。なお、宋と遼の均衡はかつての澶淵の盟(1005)で保たれてきたが、金の台頭はこの秩序を根底から変えた。阿骨打没後、金は対宋強硬へ傾斜し、中原の政局は一挙に流動化する。

政治手腕と人材登用

阿骨打は軍事的な果断さと、戦後統治の冷静さを併せ持った。征服地の取り扱いでは過度な収奪を戒め、在地の実務家・書吏・工匠の保護を命じた。一方で反乱・離反には厳罰をもって臨み、軍規の弛緩を許さなかった。完顔希尹らの能吏を重用し、条制の整備と外交交渉の分業を確立した点に、王権の近代化志向がうかがえる。

晩年・崩御と後継

1123年、阿骨打は在位中に崩じ、弟の完顔呉乞買(金太宗)が継承した。太宗は阿骨打の軍政路線を継ぎ、遼の残余勢力を掃蕩する一方、宋との関係は急速に対立へ転化する。北東アジアの政権地図は、遼の消滅、金の拡張、そして宋の戦略再編により再描画され、以後の長期的均衡は新たな前提のもとで組み替えられた。

歴史的意義

完顔阿骨打の事業は、北方遊牧の軍事システムを基軸にしながら、漢地の官僚制・文書主義を取り込むことで、多民族帝国としての実務を可能にした点にある。これは征服王朝の典型を先駆けて示すもので、のちの統治理念・法制に長期の影響を与えた。遼()の崩壊と金の成立が、宋・西北の西夏、北方の勢力圏に及ぼした波及効果は大きく、東アジアの国際秩序は再編を余儀なくされた。政治・軍事・制度・文化の各側面において、阿骨打は時代転換の触媒であった。