孫文=ヨッフェ共同宣言|第一次国共合作の端緒を築く

孫文=ヨッフェ共同宣言

孫文=ヨッフェ共同宣言は、孫文率いる中国国民党と、ソ連政府を代表する外交官ヨッフェとのあいだで、1923年に発表された共同文書である。軍閥割拠と列強の支配に苦しむ中国に対し、民族独立と国家統一をめざす国民革命路線を明確にし、ソ連がこれを支持する姿勢を打ち出した点に大きな特色がある。この宣言は、その後の国民党と中国共産党の提携、第1次国共合作へとつながる出発点として位置づけられている。

歴史的背景

19世紀末から20世紀初頭にかけての中国は、アヘン戦争以来の不平等条約体制のもとで、列強の半植民地的支配にさらされていた。清朝が崩壊した1911年の辛亥革命後も、共和政を名目としながら各地に軍閥が割拠し、統一国家の形成は進まなかった。こうした状況に対し、孫文は三民主義を掲げて革命を続けたが、財政や軍事の基盤が弱く、北洋軍閥政権を打倒する力を欠いていた。一方、1917年のロシア革命によって誕生したソビエト政権は、帝政ロシアが中国から獲得していた特権の放棄を掲げ、アジアの民族解放運動との連携を模索していた。1919年の五四運動以後、中国の知識人や青年層にも反帝国主義・社会主義思想が広がり、新たな革命路線が求められる中で、両者の利害が接近していったのである。

宣言の成立

ソ連代表ヨッフェは、アジア政策の一環として中国との関係樹立をめざし、1922年から23年にかけて上海などに滞在しながら、南方の革命勢力との接触を重ねた。その中で国民党の指導者である孫文と会談し、民族革命と社会革命の関係、ソ連の支援のあり方、不平等条約処理などについて意見交換を行った。その成果として、1923年1月、上海で共同の政治文書が作成され、これが孫文=ヨッフェ共同宣言と呼ばれるようになった。この宣言は、中国革命の進むべき段階を「民族・民主革命」と位置づけ、その指導権を国民党が担うことを承認した点に特徴がある。

宣言の内容

孫文=ヨッフェ共同宣言は長大な条文ではないが、中国の進むべき政治路線と、ソ連側の姿勢を明確に示していた。とくに重要とされる要点は、次のように整理できる。

  • 中国の革命はまず帝国主義と軍閥支配を打倒し、統一と完全な独立を達成する「民族・民主革命」であると規定したこと。
  • ソ連は中国の領土保全と統一を支持し、帝政ロシア時代の不平等な特権を放棄しうることを表明したこと。
  • 中国の革命は社会主義革命の準備段階にあり、当面はブルジョワ民主主義的性格を持つとみなされ、三民主義の綱領がその内容に合致すると評価したこと。
  • 中国の共産主義者は独自の組織を維持しつつ、国民党の内部で活動し、国民革命を推進することが望ましいとされたこと。

このように宣言は、当時まだ弱小であった中国共産党が、国民党という大衆政党の内部で力を蓄えつつ、民族革命を推進するという構図を描き出していた。同時に、ソ連側は中国をただちに社会主義体制へと転換させるのではなく、段階的発展を認める柔軟な姿勢を示した点で注目される。

中国革命運動への影響

宣言の発表後、孫文は1924年に国民党を再組織し、党の綱領に三民主義と「連ソ・容共・扶助工農」の方針を取り入れた。これは、対外的にはソ連との協力を掲げ、国内的には共産党員の参加と労働者・農民の動員を受け入れる路線であった。また、ソ連の支援によって黄埔軍官学校が設立され、国民革命軍の幹部養成が進められた。この軍事・政治両面での基盤整備が、のちの北伐へとつながり、中国統一をめざす国民革命の推進力となったのである。

ソ連・コミンテルンの対中政策の中で

ソ連およびコミンテルンにとって、中国はアジアにおける重要な革命の拠点とみなされていた。しかし、直接にソビエト型政権を樹立するだけの条件は整っておらず、まずは民族革命を支援し、反帝国主義・反封建の統一政権を誕生させることが優先された。孫文=ヨッフェ共同宣言は、この段階論にもとづく対中方針を象徴的に示した文書であり、国民党と共産党の協力体制を通じて、革命勢力を広く結集しようとする構想を反映していた。その一方で、国民党内部には共産党員の活動に警戒を抱く勢力も存在し、宣言が描いた協力関係は、常に緊張と対立の可能性をはらんでいた。

歴史的意義

孫文=ヨッフェ共同宣言は、軍事同盟や条約ほど形式的拘束力をもつものではなかったが、中国の民族革命運動が国際的支援を得て新たな段階へ進む契機となった点で重要である。宣言を通じて、国民党はソ連から政治的・軍事的援助を獲得し、北伐を実行しうる組織と軍事力の整備に踏み出した。他方、ソ連やコミンテルンは、中国革命を世界革命戦略のなかに位置づけ、アジアへの影響力拡大を図る足がかりを得た。後年、国共の対立や中ソ関係の変化によって、当初の構想は大きく変質していくが、1920年代前半という限定された時期において、この宣言が中国・ソ連双方の利害の接点となり、近代中国史の重要な転換点を画したことは否定できない。