ワスプ
ワスプとは、アメリカ合衆国の社会において伝統的な支配的集団とみなされてきた「white anglo-saxon protestant(白人・アングロサクソン系・プロテスタント)」を指す用語である。民族的にはイギリスや北西ヨーロッパに由来する白人、宗教的にはプロテスタント系諸教会の信徒を念頭に置き、植民地時代以来の「古いアメリカ人」の子孫というイメージと結びついてきた。政治・経済・教育・文化のエリート層を説明する社会学的な概念として用いられ、特に20世紀前半のアメリカ社会を理解する際の重要なキーワードである。
用語の起源と意味
略称としてのワスプという語が広く知られるようになるのは20世紀半ば以降であるが、その背後には、それ以前から存在した「古き良きアメリカ人」像がある。ニューイングランドを中心とするイギリス系移民の子孫は、独立戦争や合衆国建国に深く関与し、その後も政治家や実業家、大学教授、法律家など多くの指導的地位を占めた。彼らは自らを国家の中核と考え、道徳的規範や社会秩序の維持者であると自認したため、この語にはエリート意識と排他性の双方が込められている。
アメリカ支配層としてのワスプ
ワスプは、19世紀末から20世紀前半にかけての政治権力と経済力を強く握った。とりわけ産業化と大量生産が進展した時期には、財閥や大企業の経営者、東部の名門大学の卒業生、名家出身の政治家などがこのイメージと結びつけられた。第1次世界大戦後のアメリカ合衆国の繁栄の時代には、共和党政権を支えた東部エスタブリッシュメントが典型的なワスプ勢力とみなされた。たとえば大統領のクーリッジやフーヴァーを支えた財界・政界のネットワークには、名門家系や伝統的教会に属する人々が多く、その価値観が国家運営に強い影響を与えた。
宗教・倫理観と生活様式
ワスプは宗教的にはプロテスタント主義、とりわけ「プロテスタント・エシック」と呼ばれる勤勉・禁欲・倹約などの価値観と結びつけられる。日曜礼拝への出席、慈善活動への参加、自己責任と自助努力の重視などが理想的な市民像とされた。また、東部の名門高校や大学、社交クラブや教会共同体は、同じ背景をもつ人々が結びつく空間となり、そこから政財界の指導者が再生産されていった。このような文化的ネットワークは、後の現代大衆文化の広がりにも影響し、メディアを通じて「アメリカらしさ」の一つの型を提示した。
ワスプ的価値観の具体例
- 勤勉・時間厳守を重んじる労働観
- 家族と地域教会を中心とした共同体意識
- 個人の責任と自立を強調する政治観
- 控えめで節度ある生活様式を理想とする道徳観
移民社会との緊張関係
19世紀末以降、南欧・東欧から大量の移民が流入すると、ワスプは自らの地位が脅かされるとの危機感を抱いた。カトリックやユダヤ教など、これまで主流ではなかった宗教を信仰する移民が都市部に集中したことで、宗教・民族の多様化が進む一方、移民制限運動や排外主義的な言説も高まった。移民の多くが工業労働者として自動車産業などに流入し、フォーディズムと結びついた新しい労働者階級が形成されると、フォードによる大量生産と消費社会の拡大は、従来のワスプ中心社会を変容させる要因となった。こうした変化は、戦間期のアメリカ合衆国戦間期の政治対立や、都市と農村の文化的対立にも反映している。
ジェンダー・民主主義との関連
ワスプは長く「白人男性エリート」の代名詞であり、女性や有色人種はその外側に置かれてきた。しかし20世紀初頭のアメリカの女性参政権運動や、公民権運動の進展は、政治参加の枠組みを広げる方向に働いた。女性やマイノリティが高等教育や専門職への道を開くにつれて、従来ワスプが独占してきた地位は徐々に多様な人々へと開かれていく。この過程は、選挙権の拡大だけでなく、家族観・職業観・消費行動の変化とも連動し、20世紀のアメリカ社会を大きく変質させた。
大衆社会化とワスプのイメージ
20世紀に入りマスメディアや自動車・家電の普及によって、市民の生活水準は向上し、大衆社会が進展した。ラジオや映画、広告などのメディアが広まると、従来は地域社会の内部で共有されていたワスプ的な価値観は、全国規模のイメージとして映し出される一方で、都市の移民文化や黒人文化、大衆娯楽が新たな文化的中心を形づくるようになった。大量生産と大量消費を前提とする社会では、エリートの生活様式と大衆の生活様式の差が縮まり、エスタブリッシュメントの象徴としてのワスプ像も相対化されていく。
現代アメリカにおけるワスプ像
今日のアメリカ合衆国は、人種・民族・宗教の多様性が一層進み、政治・経済・文化の指導層も必ずしもワスプ出身者に限られない。それでもなお、東部の名門大学や伝統ある財界ネットワーク、政界の一部などには、歴史的なワスプエリートの影響が残っていると指摘されることが多い。現代大衆文化の作品でも、上流階級の象徴としてワスプ的な家族や生活様式が描かれることがあり、この概念はアメリカ社会の不平等や特権を批判的に論じる際の用語としても用いられている。こうしてワスプは、単なる宗教・民族的分類にとどまらず、アメリカ史における権力構造とアイデンティティの問題を考える上で重要な概念となっている。