ベンガル分割令|インド分割の影響と背景

ベンガル分割令

ベンガル分割令は、1905年にイギリス植民地政府がベンガル地方を行政上分割した措置であり、インド民族運動を大きく前進させた出来事である。広大なベンガル管区を統治する負担の軽減を名目としたが、実際にはベンガル人ナショナリズムの高まりを抑える「分割統治」政策として理解され、カルカッタを中心とするベンガル人の強い反発とスワデーシー運動を引き起こした。

制定の背景

19世紀末から20世紀初頭にかけて、ベンガル管区は人口約8,000万を抱え、首都カルカッタを擁する植民地インド最大の行政単位となっていた。インド総督カーゾンは、行政効率の改善を理由に再編を主張したが、その背後にはベンガル人の民族意識と反英感情の高まりへの警戒があったとされる。当時、カルカッタの高等教育を受けた上層ヒンドゥー知識人は国民会議派の主力となり、自治や政治参加拡大を求めていたため、宗教・言語を軸に地域社会を分断しようとする意図が読み取られる。

分割の内容と行政再編

ベンガル分割令により、ベンガル管区は西部のベンガル(カルカッタ中心)と、東部の「東ベンガル・アッサム」に分けられた。東ベンガルはダッカを中心とし、多数派がムスリムであったのに対し、西ベンガルはヒンドゥー教徒が多く、経済・教育面で優位に立っていた。イギリス政府はこれを行政合理化と説明したが、実際にはヒンドゥー系ナショナリストの影響力を弱め、宗教的境界線に沿って社会を区切ることで、反英運動の連帯を防ぐ狙いがあったと理解されている。

ヒンドゥー教徒社会とスワデーシー運動

カルカッタを中心とするヒンドゥー教徒の知識人・商人層は、経済的中心地ベンガルが分割されることに強く反発し、ベンガル分割令を植民地支配の恣意的介入と受け止めた。この反発から、イギリス製品を排除し国産品を奨励するスワデーシー運動が広がり、ボイコット、ストライキ、集会、外国布の焚焼などが展開された。こうした運動は、従来の請願中心の穏健な政治活動を超えた大衆的民族運動として、のちのインド独立運動の戦術と精神を先取りするものとなった。

  • イギリス製織物・日用品のボイコット
  • 国産工業・手工業の奨励と出資
  • 政治集会・デモ行進による抗議

イスラーム教徒の反応とムスリム政治

一方、東ベンガルではムスリム地主や知識人を中心に、行政上の中心がダッカに移ることで政治的影響力と官職の機会が増すとの期待もあり、ベンガル分割令を歓迎する声もみられた。こうした経緯は、宗教共同体ごとに利害を異ならせることによって人々を分断する「分割統治」を強め、インドのイスラーム教徒の間には独自の政治組織形成の機運が高まった。1906年にダッカで結成されたムスリム連盟は、後にヒンドゥー主体の国民会議派と並ぶ政治勢力となり、宗派間対立がインド政治の重要な軸へと変化していく。

廃止とその歴史的意義

強力なスワデーシー運動と全国的な抗議の高まりを受け、1911年にイギリス政府はベンガル分割令の撤回を発表し、分割は形式的に解消された。同時に首都はカルカッタからデリーへ移され、ベンガル内部ではのちにビハールやオリッサなどの新州設置が進められたため、行政区画の再編自体は続いた。しかし、ベンガル分割をめぐる経験は、ナショナリズムの高揚と宗教共同体間の溝を深める二重の効果をもたらし、最終的にはインド・パキスタン分離独立やベンガル地域の分断という20世紀後半の展開へつながる重要な転機として位置づけられている。