国民会議派
国民会議派は、インドにおける近代的民族運動を主導した政治団体であり、のちに与党となる政党「インド国民会議(Indian National Congress, INC)」として発展した組織である。もともとはイギリスの植民地統治の枠内でインド人エリートの発言権拡大を求める穏健な団体として出発したが、20世紀に入ると反植民地主義とスワラージ(自治)を掲げる大衆的民族運動の中心となり、最終的にインド独立の達成に決定的役割を果たした。
成立と初期の性格
1885年、ボンベイで退職官僚ヒュームらとインド人知識人が会合を開いたことを起点として国民会議派が結成された。メンバーは英語教育を受けた高カーストの都市エリートが中心であり、請願や議会での質疑など立憲的な手段によって植民地政府に行政参加の拡大や財政の監督権強化を要求した。ナショナリズムを掲げつつも、当初はイギリスへの忠誠を公言し、帝国内での地位向上を図る「穏健派」が運動を主導していた。
穏健派と急進派の対立
19世紀末になると、穏健な請願だけでは植民地支配の構造を変えられないとの不満が高まり、バル・ガンガーダル・ティラクらの急進派が国民会議派内部で影響力を増した。彼らはスワラージの獲得と、イギリス商品ボイコットや国産品愛用(スワデーシー)運動を主張し、1905年のベンガル分割に対する抗議運動を通じて大衆を動員した。これに対しゴーカレら穏健派は立憲的改革路線を維持しようとしたため、1907年スーラト大会で組織は穏健派と急進派に分裂し、民族運動は一時的に弱体化した。
ガンディーの指導と大衆運動
第1次世界大戦後、ロウラット法やアムリットサル事件によって植民地支配の抑圧性が露わになると、マハトマ・ガンディーが国民会議派の指導者として台頭する。ガンディーはサティヤーグラハ(真理の把持)にもとづく非暴力・不服従を掲げ、1920年代の非協力運動や1930年の塩の行進、公民的不服従運動を主導した。これにより農民、都市中間層、商人、さらには一部の低カースト層まで運動に参加し、インド民族運動は少数エリートの議論から全国規模の大衆運動へと転化した。
独立交渉と政党としての展開
第2次世界大戦期、イギリスがインドを一方的に戦争に動員すると、ガンディーやネルーらは「クィット・インディア」スローガンのもとで全面的な独立要求を掲げた。戦後、ネルーら国民会議派指導部はイギリス労働党政権と交渉しつつ、ムスリム連盟との対立やインド分割の問題に直面したが、1947年のインド独立にこぎつけると、新生インド国家の与党として政権を担った。ネルー内閣のもとで議会制民主主義と計画経済が導入され、非同盟主義外交も推進された。
近代インド史における意義
国民会議派は、約半世紀にわたる反植民地運動の組織的中心として、インド社会に近代的な政党政治の枠組みを定着させた。宗教やカーストを超えた「インド民族」という枠組みを掲げた点で、ヒンドゥー教徒中心でありながらも世俗主義と多民族共存の理念を打ち出し、アジア・アフリカの民族運動に大きな影響を与えた。他方でムスリム代表の不足や農村貧困層への対応の限界は、インド分割やその後の地域政党の台頭を招く要因ともなったが、それでも国民会議派は近代インド国家形成を語るうえで不可欠な存在である。