クリプトン(Kr)
クリプトンとは、原子番号36の希ガス元素であり、化学的に極めて不活性な特性をもつ無色無臭の気体である。地球大気中の体積濃度は約1 ppmと希少で、空気の低温分留により工業的に回収される。価電子殻が閉殻(電子配置は[Ar]3d10 4s2 4p6)であるため化学的に極めて安定で、放電時に生じる特徴的な発光を利用した光源、励起分子(エキシマ)を用いた紫外光源・レーザー、断熱窓の封入ガス、同位体を用いた年代測定・環境トレーサなどで用いられる。気体密度は0 °C・1 atmで約3.7 g/Lと空気より重く、融点は約−157 °C、沸点は約−153 °Cである。地球上の大気に占める割合はごくわずかであるものの、光学特性やイオン化エネルギーなどの性質が注目され、化学工学や物理学の分野で活発に研究が進められてきた。近年では半導体リソグラフィや特殊照明、プラズマ技術などの高度化により需要が高まりつつある貴重な資源の一つとされる
元素としての位置づけ
クリプトンは周期表の18族、いわゆる希ガス(貴ガス)元素の一員であり、同族にはヘリウム、ネオン、アルゴン、キセノンなどが含まれる。希ガスは最外殻電子が完全に満たされているため、他の元素と反応しにくい点が最大の特徴である。特にクリプトンは化学結合を形成しづらく、高温高圧下でも反応性が低いことから、安定した単原子分子として大気中に微量存在している。希ガスの中でも質量が中間に位置し、ヘリウムなど軽いガスと比べて比重が大きく、特定の波長領域で特有の放電色を放つ性質が利用されてきた
類縁希ガス
- アルゴン:安価で溶接・保護雰囲気に普及。熱伝導率はクリプトンより高く、断熱用途では性能差が出る。
- キセノン:発光効率や大出力光源で優位だが高価。医療・特殊照明や衛星スラスターで重要。
- ネオン:低温での発光特性が良く、サイン照明や低温装置で用いられる。
基礎性質と原子論
クリプトンは周期表18族に属する希ガスで、ヘリウムやネオン、アルゴン、キセノンと同系列に位置づく。価電子が8個の閉殻構造を取り、イオン化エネルギーが高く反応性は低い。安定同位体として78Kr、80Kr、82Kr、83Kr、84Kr、86Krが存在し、放射性同位体では81Kr(半減期約23万年)が古地下水や氷床の年代測定に利用される。85Krは核分裂起源のβ放出核種で、大気中濃度の監視やリーク検知のトレーサとして用いられる。
物理的特性
常温常圧で無色無臭の気体として存在するクリプトンは、沸点が約−153℃、融点が約−157℃と比較的低温で液化・固化できることが知られている。希ガスの中ではアルゴンよりも重く、キセノンよりは軽い中間的な位置づけとなる。その原子半径やイオン化エネルギーの関係で、プラズマ放電時に特定のスペクトルを示すことから、照明や計測機器において波長の制御を行う際に活用されるケースが多い。また、不活性なため生物学的影響は少ないが、高濃度では酸素を置換し、酸欠を引き起こす可能性がある点には留意が必要となる
熱・相・輸送
- 相転移:融点約−157 °C、沸点約−153 °C(1 atm)。極低温で固体は面心立方格子をとる。
- 熱物性:熱伝導率はアルゴンより低く、窓ガラス中空層の断熱性能を高める封入ガスとして有効である。
- 輸送特性:拡散係数は窒素・酸素より小さく、重い気体としての挙動を示す。
生成・分離と高純度化
クリプトンの主産源は空気分離装置である。液化空気の低温分留により酸素・窒素から重い希ガス成分を濃縮し、精留塔でアルゴンやキセノンと分離する。用途に応じて吸着・ゲッター・不純物反応除去(O₂、H₂O、H₂、CO、CO₂、CH₄など)を併用し、5N(99.999 %)級まで高純度化する。ボンベ充填時は水分・油分の混入を厳密に管理する。
化学反応性と化合物
クリプトンは不活性であるが、強力なフッ素化条件でKrF₂(ジフルオリド)を形成しうる。KrF₂は強い酸化剤で、低温・無水条件下で安定性が相対的に高い。放電や光励起で生成する一時的な励起分子(KrF、KrClなど)は基底状態で安定に存在せず、光学用途で利用される。水和物やクラスレートに物理閉じ込めされる例も報告されている。
発光スペクトルと光学応用
クリプトンの原子発光は可視域に特徴的な輝線を持ち、低圧放電管やネオン管類似の表示・装飾照明に使用される。高圧クリプトンランプは白色性と高輝度が求められる投光照明・航空障害灯などで利用され、写真用フラッシュ管でも短パルス・高出力光源として重要である。さらに、KrF(248 nm)やKrCl(222 nm)などのエキシマ発光は、フォトリソグラフィ、表面改質、減菌・ウイルス不活化、分光分析といった紫外プロセスで広く用いられてきた。
産業用途と応用
クリプトンはガス放電管や蛍光ランプなどの光源で重要な役割を果たす。従来の白熱電球や蛍光灯においても、フィラメントの酸化を抑制すると同時に放電特性を向上させる目的で使用される事例が存在する。ネオンやアルゴンと混合することにより、特定の光色や効率的な放電を得ることができるほか、レーザーの分野では KrF(クリプトンフッ化物)レーザーが半導体露光装置の短波長光源として注目されている。また断熱性の高い二重窓に充填するガスとしても利用され、熱伝導率の低さから建築分野にも応用が広がっている
産業用途例
- 建材:複層ガラスの中空層にクリプトンを封入すると熱伝導率低下により断熱性能が向上する。厚み・スペーサ設計と合わせて総合最適化する。
- 光源:放電灯・フラッシュ・エキシマランプは電極設計、封入圧、封止材料(石英・アルミナ)選択が性能と寿命を左右する。
- 半導体:KrFエキシマレーザー(248 nm)はリソグラフィや微細加工に歴史的役割を持ち、装置のガス純度維持と光学系の耐UV設計が要点である。
- 分析:同位体比質量分析(IRMS)やトレーサ手法により環境循環や地下水滞留時間の評価が可能である。
分離・回収技術
空気分離装置においては、窒素や酸素を液化・蒸留する過程で希ガス類を抽出する工程があるが、その中でもクリプトンは含有量が極めて低いため、大規模かつ高精度な設備を必要とする。一般的には空気を極低温に冷却して液化し、気化温度の差を利用して段階的に成分を分離していく。その最終的な分留工程において、クリプトンとキセノンを一緒に抽出し、さらに分離精製することで工業用製品として出荷される。こうしたプロセスはエネルギーコストが高く、また技術的にも複雑なため、希少ガスの価格は他の一般的なガスより高価になりやすい
分析・計測と同位体利用
クリプトンの81Krは希薄であるため、原子計数法(ATTA)など超高感度手法が用いられる。古水文・古気候研究では81Kr年代測定が10万年以上スケールの「時計」として機能し、85Krは再処理施設起源の大気濃度監視に応用される。産業現場ではガス純度のオンラインモニタ(露点・残留酸素・有機汚染)と合わせ、製品特性の安定化に寄与する。
研究開発の動向
近年、半導体の微細加工技術ではエクシマレーザーが不可欠となっており、KrFレーザーを用いたリソグラフィプロセスが高精度化を牽引してきた。さらに小さな回路パターンを形成するために波長の短い紫外線領域が求められ、レーザーガスとしてのクリプトンの純度管理や安定供給が課題となっている。その他の分野でも、放射性同位体の 85Kr を利用したトレーサー技術や大気中の核実験モニタリングなど、環境調査や防災・安全保障に関わる研究も進行中である。さらに、天文学や宇宙探査ミッションにおいて希ガスを推進剤とするイオンエンジンの開発が進んでおり、クリプトンは比推力やコスト面のバランスからキセノンの代替候補として注目されている
安全性と取り扱い
クリプトン自体は化学毒性をほとんど示さないが、窒息性ガスであるため密閉空間では酸素欠乏の危険がある。密閉空間で大量に漏洩すると酸素濃度を著しく低下させるため、取り扱う際には換気設備やガス検知器を整え、安全確保に努めることが肝要となる。また、液化状態や高圧ボンベの形態で輸送・保管されることが多いため、法令や規格に基づく厳格な管理が要求される。希少性が高いため乱用のリスクは小さいものの、需要増大に伴う価格変動や供給不安定化が懸念されていることから、リサイクル技術やガス回収システムの導入が進められている
安全衛生とリスク管理
- 高圧ガス容器は転倒防止・キャップ装着・減圧器の適正選定を徹底し、漏えい時は低所に滞留しやすい点を踏まえて換気計画を立てる。
- 極低温下の取扱いでは凍傷・材料脆化に注意する。
- 日本では高圧ガス保安法の対象であり、貯蔵量・圧力区分に応じた許認可・掲示・保安教育が求められる。
コスト・供給の概説
クリプトンは大気由来で産出量が限られ、需要の大きい照明・半導体・建材市場の変動に価格が影響されやすい。空気分離設備の稼働率、キセノンとの同時回収、地域的需給バランスが供給安定性に寄与する。設計段階では代替ガス(アルゴン等)との性能・コスト評価、ガス純度と消費量の最適化、サプライチェーンの複線化を考慮することが望ましい。
設計・運用の実務ポイント
- ガス純度の規定(例:水分・酸素・炭化水素の上限)と受入検査手順を文書化する。
- 封入系は材料適合性(石英・金属封止・シール材)と放電条件(圧力・電極間距離・波形)を同時最適化する。
- 窓断熱では層厚・スペーサ・封入圧の設計感度を評価し、結露・音響・耐候要求も併せて検討する。
- 安全教育では酸素欠乏リスク、ボンベ取扱、換気・警報の信頼性点検を定例化する。