ウィリアム3世
ウィリアム3世は、オランダ総督であったオレンジ公ウィレムとして成長し、1688年の名誉革命を通じてイングランド・スコットランド・アイルランドの王位に就いた君主である。彼は王妃メアリ2世と共同統治を行い、議会主権と王権の制限を定めた一連の制度改革を進めることで、イングランドにおける立憲君主政の基礎を築いた。また、対フランス政策ではルイ14世の膨張を抑えるために諸国と同盟を結び、ヨーロッパの勢力均衡を重視する外交を展開した点でも知られる。
生い立ちとオランダ総督としての経歴
ウィリアム3世は1650年、ハーグでオレンジ公家に生まれた。父ウィレム2世は彼の誕生前に死去し、幼いウィリアムはオランダ諸州の摂政たちのもとで育てられた。1672年、フランス王ルイ14世の侵攻などによって「災厄の年」と呼ばれる危機がオランダを襲うと、ウィリアムは諸州から総督に選出され、祖国防衛の中心人物となった。彼はイングランドや神聖ローマ帝国との協力を通じてフランスの攻勢を食い止め、プロテスタント諸国の指導者としての名声を高めていった。このオランダでの経験は、後にイングランド王としてルイ14世に対抗する大同盟戦争を主導する際の基盤となった。
イングランド王位獲得と名誉革命
17世紀後半のイングランドでは、王政復古後に即位したチャールズ2世、その弟であるカトリック王ジェームズ2世の下で、専制化とカトリック回帰への不安が強まっていた。とくにジェームズ2世の宗教政策は、プロテスタント貴族や都市民、そしてトーリ党・ホィッグ党の一部からも強い反発を招いた。1688年、こうした貴族・議会人のグループは、プロテスタントであり王位継承者メアリの夫でもあるウィリアムに対し、軍を率いて上陸するよう密かに要請した。ウィリアムは艦隊を率いてイングランドに上陸し、多くの有力者が彼に合流した結果、ジェームズ2世はフランスへ逃亡した。翌1689年、議会は王位の空位を宣言し、ウィリアムとメアリ2世を共同君主として迎え入れ、これが「血をあまり流さなかった革命」として名誉革命と呼ばれるようになった。
議会主権と宗教政策
ウィリアム3世は即位にあたり、王権の行使に厳しい条件を課した「権利章典」を受け入れた。これは課税や常備軍の維持に議会の同意を必要とし、選挙や言論の自由の保障をうたうもので、すでにチャールズ2世期に制定されていた人身保護法と並んで、イングランドにおける個人の自由と議会主権を制度的に支える柱となった。宗教面では、国教会の優位を維持しつつ、プロテスタントの非国教徒に礼拝の自由を認めた寛容法が制定され、一定の宗教的多様性が容認された。しかし、公職就任には国教会への忠誠と聖餐受領を求める審査法は存続し、カトリックと多くの非国教徒は依然として政治参加から排除された。議会内ではトーリ党とホィッグ党の対立と協力が繰り返され、ウィリアム3世が彼らの間でバランスを取りながら政務を委ねたことは、後の内閣責任制と政党政治発展の前段階となった。
- 権利章典による課税・軍事権への議会統制
- 人身の自由を保障する人身保護法の再確認
- 寛容法によるプロテスタント非国教徒への限定的自由
対フランス政策と大同盟戦争
ウィリアム3世はオランダ総督時代から一貫してルイ14世の覇権拡大を最大の脅威とみなし、その牽制を自らの使命と考えていた。王位就任後もこの姿勢は変わらず、彼はイングランドとオランダ、神聖ローマ帝国などを結集した大同盟を形成し、1689年から大同盟戦争(九年戦争)を主導した。戦争はヨーロッパ各地および海上で展開され、軍事的な決定的勝利こそなかったが、フランスの拡張を抑え、イングランド海軍の力と財政動員能力を高める契機となった。ウィリアム3世の時代には国債制度や中央銀行が整備され、戦費調達のための近代的な公債制度が発達し、後の大英帝国の財政基盤が形づくられていった。
晩年と歴史的評価
1694年に共同統治者であったメアリ2世が死去すると、ウィリアム3世は単独君主として統治を続けたが、健康は次第に衰え、後継問題が浮上した。生存する直系の子がいなかったため、議会は1701年に王位継承をプロテスタントに限定する王位継承法を制定し、これによりハノーヴァー家への継承が定められた。1702年、ウィリアム3世は落馬事故をきっかけに死去し、その後をアン女王が継いだ。歴史的にみて、ウィリアム3世は個人的な魅力よりも政治・軍事指導者としての役割によって評価されてきた。彼はオランダとイングランドという二つの国家を結びつけ、議会主権と王権制限の原理を実際の統治の中で定着させるとともに、フランス覇権に対抗する国際的な同盟網を築いた点で、近代ヨーロッパの政治秩序形成に大きな足跡を残した君主である。