チャールズ2世|王政復古を成し遂げた国王

チャールズ2世

チャールズ2世は、17世紀イングランドにおいて断頭台で処刑されたチャールズ1世の息子であり、ピューリタン革命後の王政復古によってイングランド・スコットランド・アイルランドの国王として即位したステュアート朝の君主である。内戦と共和政を経たのちに復活した王権を担い、議会・宗教・外交をめぐる対立の中で近世イギリスの政治秩序と宮廷文化の方向性を大きく規定した人物である。

生涯と背景

チャールズ2世は1630年、ステュアート朝のチャールズ1世と王妃アンリ・マリの長子として生まれた。青年期にピューリタン革命が勃発し、国王派として内戦に参加したが、王党派は敗れ、父王は処刑され、自身もフランスやオランダに亡命生活を送ることになった。この経験は、後の統治において議会勢力や宗教勢力との妥協を意識させる要因となった。

王政復古と即位

オリヴァー・クロムウェルが護国卿として共和政を指導したが、その死後、軍と議会の対立から政情は不安定化した。1660年、ブリッジの宣言を経て、イングランド議会は亡命中の王子を招き、王政復古が実現した。こうしてチャールズ2世はロンドンで戴冠し、ステュアート朝の王権が形式的には回復したが、その権力はすでに議会勢力によって制約されていた。

議会政治と内政

チャールズ2世の時代には、王権と議会の力関係をめぐって駆け引きが続いた。王は財政基盤の弱さから、議会の同意なくして安定した歳入を得ることが難しく、税制・関税・航海法の改正を通じて財政強化を図った。一方、議会側では、のちにイギリス議会政治の確立へとつながる党派対立が進み、王権を支持するトーリ党と、不安定な王権継承に警戒するホイッグ党が形成された。

宗教政策と対立

内政で最大の問題は国教会と非国教徒・カトリックとの関係であった。王は個人的には寛容政策を志向しつつも、議会多数派はイングランド国教会を防衛するため非国教徒を排除する法令を次々と制定した。いわゆるテスト法は公職就任において国教会への忠誠を求め、カトリックに対する不信と差別を強めた。王弟ジェームズのカトリック信仰をめぐる継承問題は、のちの名誉革命につながる深刻な政治争点となった。

外交と英蘭戦争

チャールズ2世の外交は、海上覇権と商業利権をめぐるネーデルラント連邦共和国(オランダ)との対立に彩られた。イングランドはイギリス=オランダ戦争(英蘭戦争)を通じて、海運と植民地貿易の優位を狙った。航海法の強化や植民地政策は、ロンドンやニューヨークなど大西洋交易港の発展を促し、ブルジョワ市民層の商業活動を後押ししたが、戦費の増大は財政危機を一層深刻化させた。

宮廷文化と「陽気な王」

チャールズ2世は「メリー・モナーク(陽気な王)」と呼ばれるほど社交的で享楽的な宮廷文化を築いた。内戦と清教徒政権下で禁止されていた劇場や娯楽は復活し、ロンドンの宮廷や都市には華やかなバロック文化が花開いた。宮廷には多くの芸術家・科学者が集まり、王立協会の保護を通じて自然科学の発展にも一定の役割を果たした。一方で、贅沢な宮廷生活は道徳的批判と財政逼迫の要因ともなった。

災害と都市再建

チャールズ2世の治世には、1665年のロンドン大疫病と1666年のロンドン大火といった大災害が発生した。これらの危機に対し、王は復興事業を指導し、近代的な都市計画に基づくロンドン再建が進められた。石造建築の増加や道路の整備は、のちの商業都市ロンドン発展の基盤となり、ジェントルマンや商工業市民層を中心とする社会構造の変化を促した。

死と評価

チャールズ2世は1685年に没し、後継者として弟ジェームズ2世が即位した。その治世自体は専制的絶対王政には至らず、議会との妥協と対立を繰り返す過程であったが、その経験がのちの名誉革命と立憲制確立の前提を形づくったと評価される。内戦と共和政という激動の後に王権を復活させたチャールズ2世は、近代イギリス国家形成の中間段階を体現する君主として位置づけられる。