イブン=マージド
イブン=マージドは、15世紀後半にインド洋世界で活躍したアラブ人航海者であり、詳細な航海記録と航海理論を書き残したことで知られる。オマーン湾や紅海、インド西岸を舞台に活動し、モンスーン風や海流を利用する伝統的航海術の集大成を行った人物とされる。のちにポルトガルが主導する大航海時代の進展においても、その知識はインド洋航路理解の基盤となり、ヨーロッパ中心の海洋史像を補完する存在である。
生涯と活動の背景
イブン=マージドは、アラビア半島東岸の航海者一族に生まれたと伝えられ、幼少期からペルシア湾やオマーン海域で船乗りとして経験を積んだ。彼は紅海から東アフリカ沿岸、インド西岸に至るまでの海域に精通し、港湾間の距離、潮汐、暗礁の位置を詩的なアラビア語文体で記録した。こうした活動は、香辛料や織物を運ぶインド洋交易ネットワークを支えるものであり、のちにインド航路の開拓に挑むヨーロッパ人にとっても重要な情報源となった。
航海術と著作
イブン=マージドの代表的著作とされる「航海の諸原理と規則の書」は、星座の位置や太陽高度から船の位置を推定する方法、羅針盤の利用、風向きと季節風の変化を組み合わせた航路選択などを体系的に解説するものである。そこでは、伝統的なアラブ航海者の経験知が整理され、同時代のインド洋の港湾や海峡についても詳細な地理的記述が加えられている。このような知識は、のちの遠洋航海術の発展と比較するうえでも貴重な資料となっている。
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星や太陽高度にもとづく位置決定法の整理
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季節風と海流を利用した効率的な航路の提示
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港と港の距離・方位・危険水域の記録
ヴァスコ=ダ=ガマとの関係
イブン=マージドは、しばしばポルトガル人航海者ヴァスコ=ダ=ガマをインド西岸へ案内した水先案内人であったと語られてきた。東アフリカのマリンディからカリカットへ向かった最初の航海で、彼の知識が利用されたという伝承である。しかし、史料上では別人である可能性も指摘されており、直接の関与については研究者の間で見解が分かれている。それでも、インド洋航路がアラブ・インド側の長年の経験にもとづいていたことを象徴する人物として、イブン=マージドの名が取り上げられている。
この伝承は、エンリケの支援を受けたポルトガルの探検家たちがセウタの占領や喜望峰の到達を経てインド洋へ進出し、ヨーロッパ世界の拡大を進めていく過程で、在地の航海者の知識に依拠していたことを示していると理解されることが多い。
評価と歴史的意義
イブン=マージドの著作は、インド洋の伝統的航海術を知る一次資料として評価されており、アジア側の視点から大航海時代を捉え直すうえで重要である。彼の記録は、アラブ・インド・東アフリカを結ぶ交易圏がすでに高度な海図と経験に支えられていたことを示しており、ヨーロッパの進出以前から海洋世界に広域のネットワークが存在していた事実を浮かび上がらせる。こうした点から、イブン=マージドはインド洋史研究だけでなく世界史叙述全体においても、地域ごとの知識体系と技術の継承を考える鍵となる人物である。