インド航路の開拓
インド航路の開拓とは、ヨーロッパのキリスト教世界、とくにポルトガルがアフリカ西岸から喜望峰を回ってインドへ至る海路を切り開いていった過程をさす。陸路のシルクロードやイスラーム商人の海上交易に依存していた香辛料やインド産綿布の流通に、ヨーロッパ側が自ら直接参加しようとした試みであり、のちの大航海時代の核心的な動きであった。この海路の成立は、インド洋世界と地中海世界を一体の交易圏として結びつけ、ヨーロッパの海洋帝国成立への出発点となった。
インド航路の開拓の背景
中世末のヨーロッパでは、アジア産の胡椒・香辛料・絹織物・綿布などの需要が高まり、その供給は主としてイスラーム商人とイタリア商人によって支配されていた。オスマン帝国の拡大によって東方交易が不安定化すると、香辛料をより安価に、かつ安定して入手するため、アフリカ沿岸を南下してインドへ向かう新たな海路を求める動きが強まった。小国ポルトガルがその先頭に立ち、より早く新航路を確保することで経済的優位を得ようとしたのである。
エンリケ航海王子と西アフリカ沿岸進出
15世紀前半、ポルトガル王族のエンリケは「航海王子」と呼ばれ、西アフリカ沿岸探検と海上交易の組織化に大きな役割を果たした。彼はサグレスに航海基地を設け、海図や船舶技術、天文航法などの知識を集め、改善を進めた。この過程で、羅針盤の活用や天体観測による位置測定などの遠洋航海術が発展し、カラベル船と呼ばれる帆走性能に優れた船も用いられた。
セウタ占領と大西洋諸島の開発
1415年の北アフリカの港湾都市セウタの占領は、イスラーム世界の交易情報に接近する足がかりとなった。さらに、ポルトガルは大西洋上のマディラ島やアゾレス諸島を開発し、サトウキビ栽培や航海の中継基地として利用した。これらの拠点は、アフリカ西岸から南へと延びるインド航路の開拓に不可欠な寄港地として機能した。
喜望峰到達とインド到達
15世紀後半になると、ポルトガル船はギニア湾を越え、アフリカ南端を目指すようになる。1488年、ディアスはアフリカ南端の喜望峰に到達し、アフリカを回り込めば東方へ出られることを実証した。その後、航海技術と航路情報が蓄積されると、1498年にはヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰を回ってインド西岸のカリカットに到達し、ヨーロッパからインドへの直接海路が開かれた。
インド洋支配と貿易拠点
ポルトガルはインド到達後、ゴアをはじめとする港湾都市を占領し、砦と倉庫を備えた拠点を設けた。さらに東方に向かってマラッカやモルッカ諸島へも進出し、香辛料貿易の要所を軍事力で押さえ、他国船を排除しようとした。この過程で、のちにオランダが拠点とするバタヴィアや、対立の一因となるアンボイナ事件など、インド洋・東南アジアをめぐる争いも生じていく。
インド航路の開拓がもたらした影響
インド航路の開拓によって、ヨーロッパ勢力は地中海世界を介さずに香辛料やアジアの産物を輸入できるようになり、ポルトガルのリスボンは世界交易の中心の一つとなった。16世紀には、オランダやイギリスもこの海路を利用し、イギリス東インド会社やオランダ東インド会社を設立してアジア貿易に参入する。こうしてインド洋はヨーロッパ諸国の競争の舞台となり、世界規模の商業ネットワークが形成された。
ヨーロッパ世界の拡大とインド航路
アジアへの新航路の成立は、キリスト教布教、植民地支配、軍事進出と結びつき、ヨーロッパ世界の拡大を促進した。ポルトガルに続いてスペイン・オランダ・イギリスなども海洋進出を強化し、海軍力と貿易力を基盤とする近世国家が台頭する。インド航路は、こうした近世ヨーロッパの成立の一要因であり、世界史において海洋と帝国の時代を切り開いた海路として位置づけられる。