アイルランド併合
アイルランド併合とは、1800年連合法によってイギリス王国とアイルランド王国が統合され、1801年に「グレートブリテン及びアイルランド連合王国」が成立した出来事である。この併合は、名目上は両王国の対等な合同とされたが、実際にはイギリス議会へのアイルランドの吸収であり、以後のアイルランド問題や民族運動、さらには20世紀の分離独立まで長期にわたる対立の出発点となった。
併合以前のアイルランド支配
アイルランド併合以前、アイルランド島は中世以来、ノルマン系支配とイングランド王権の浸透を経て、正式にはイングランド王の支配下に組み込まれていた。18世紀までに「プロテスタント・アセンデンシー」と呼ばれる少数派のプロテスタント地主層が政治と土地を独占し、多数派のカトリック教徒は土地所有や公職就任を制限されるなど、厳しい差別立法のもとに置かれていた。このような宗教的不平等は、後の民族運動や反乱の重要な背景となった。
アイルランド議会と限定的自治
18世紀後半、アイルランドにはダブリンに独自の議会が存在し、形式的には王国としての地位を有していた。とくに1780年代には「グラッタン議会」と呼ばれる時期に一定の立法権の拡大が見られ、名目上はロンドンからの干渉が緩和された。しかし、その議席はほとんどがプロテスタント地主によって占められており、大多数のカトリック農民や都市住民は依然として政治に参加できなかった。この限定的自治は、後に行われるアイルランド併合を正当化する際、「腐敗した特権身分の議会」として批判の対象ともなった。
1798年反乱とフランス革命の影響
18世紀末になると、フランス革命やアメリカ独立の理念がアイルランドにも波及し、宗派を超えた共和主義的運動が台頭した。1798年、カトリックと一部プロテスタント急進派からなる「アイルランド統一派」が反乱を起こし、フランス軍の援助も期待したが、英軍によって苛烈に鎮圧された。イギリス政府は、この反乱をもってアイルランドが独自の議会を保つことの危険性を強調し、フランス革命期の対仏戦争と結び付けて併合構想を推し進めていくことになる。
1800年連合法の成立過程
連合法は、ロンドンとダブリン双方の議会で承認される必要があったが、アイルランド議会は当初これに反対した。そこでイギリス政府は、年金・地位・叙勲といった恩典を用いた買収や選挙区の整理を通じて、アイルランド側の有力議員を支持に転じさせたといわれる。その結果、1800年に連合法が可決され、1801年1月から両王国は統合されることになった。表面上は合同王国の成立であったが、実態はアイルランド議会の廃止とウェストミンスター議会への吸収であり、これがアイルランド併合の核心であった。
新国家体制と議会構成
連合王国のもとで、アイルランドは貴族院・庶民院の双方に一定数の議席を持つことになった。だがその議席数は人口に比して少なく設定され、政治的発言力は限定されていた。また、議会選挙の制度は依然として高い財産資格に基づいており、カトリック教徒の多くは選挙権や被選挙権を持たなかった。こうした制度は、19世紀の選挙制度改革や二大政党制の発展、さらには自由党と保守党の政争のなかで徐々に見直されていくが、少なくとも併合直後にはアイルランド多数派の政治的排除が続いた。
宗教問題とカトリック解放
アイルランド併合を推し進めた首相ピットは、本来であれば併合と同時にカトリック教徒の公職就任を認める「カトリック解放」を実現する構想を持っていた。しかし、国王ジョージ3世がこれに強く反対したため、解放は実施されず、ピットは辞任に追い込まれた。その後もカトリック側の不満は高まり、19世紀前半にはオコンネルらによる大衆運動が展開され、最終的に1829年のカトリック解放法によってようやく公職就任が認められることになる。この遅延は、併合が平等な統合であったというイギリス側の主張を弱め、植民地的支配というアイルランド側の認識を強めた。
経済構造と大飢饉への道
併合によってアイルランドはイギリス本国と一体の経済圏とされ、関税障壁は撤廃された。これにより、一部の輸出産業は恩恵を受けたが、工業基盤の乏しいアイルランドでは、都市工業の発展が限定され、農業依存の構造がむしろ固定されていった。地主制のもとで小作農がジャガイモ単作に依存する傾向が強まり、1840年代の大飢饉の際には脆弱な社会構造が露呈した。飢饉への政府対応の不十分さは、併合後のロンドン政府がアイルランド社会の窮状に十分な責任を果たしていないという批判を高め、以後の民族運動に深い傷痕を残した。
民族運動とホーム・ルール要求
19世紀後半になると、アイルランドでは議会内外で自治要求が高まった。議会内ではパーネルらによるホーム・ルール運動が展開され、ロンドンの庶民院でアイルランド自治法案が提出されるに至った。この過程ではグラッドストン率いる自由党が自治支持を掲げ、これに対しディズレーリの流れを継ぐ保守党が強く反対するなど、イギリス本国の二大政党制の争点にもなった。ホーム・ルール法案はたびたび挫折したが、併合体制の見直しを求める圧力は確実に強まっていった。
文化的ナショナリズムと連合王国批判
アイルランド併合は政治制度だけでなく、文化や言語の面でも摩擦を生んだ。英語教育やイングランド的価値観の浸透は、ゲール語や伝統文化の衰退をもたらし、これに対する反発として文学やスポーツ、言語復興運動を通じた文化的ナショナリズムが興隆した。こうした動きは後のシン・フェインや独立運動の土壌となり、併合を単なる政治上の制度問題ではなく、文化とアイデンティティの問題として捉え直す視点を育てた。
連合王国体制の変容と選挙改革
19世紀の連合王国では、選挙法改正や行政改革が進み、政治参加の枠組みが拡大した。イギリス国内では選挙法改正(第2回)や選挙法改正(第3回)、さらには秘密投票法などの改革が行われ、都市労働者や農民層への選挙権付与が進んだ。これらの改革はアイルランドにも適用され、アイルランド系議員がロンドン議会で一定の発言力を持つようになったが、それでもなお、多くの民族主義者は「ロンドンで代表されること」ではなく「ダブリンで自ら統治すること」を目標として掲げ続けた。
アイルランド併合の長期的帰結
アイルランド併合は、19世紀ヨーロッパにおける国家再編の一局面としても位置づけられる。フランスの第二帝国や、世界経済の進展を象徴するロンドン万国博覧会などと同時代の出来事として見ると、帝国と民族国家、中心と周辺の関係がどのように再編されていったかを理解しやすい。併合による統一王国は、帝国としてのイギリスの基盤を強化したが、同時にアイルランドの分離独立運動や北アイルランド問題の遠因をも生み出した。20世紀にアイルランド自由国が成立し、島が分割された後も、連合法による併合の記憶は歴史認識と政治対立の重要な焦点であり続けている。
歴史研究上の意義
歴史学においてアイルランド併合は、単なる法律の成立や制度変更としてだけでなく、支配と従属、中心と周辺の関係を考察する事例として重視される。併合を通じて、イギリス国家がどのように多民族・多宗派を抱え込む帝国となり、またその内部矛盾がいかにして民族運動や自治要求として噴出したのかを検討することで、近代国家や帝国の変容過程をより立体的に理解することができるのである。