アイルランド問題|宗教と自治が揺らす英領支配

アイルランド問題

アイルランド問題とは、近代以降のイギリスにおいて、アイルランドをいかに統治し、どのような地位を与えるかをめぐって生じた政治・宗教・民族の諸対立を指す概念である。とくに19世紀から20世紀前半にかけて、連合王国内でのアイルランドの自治要求、カトリックとプロテスタントの対立、土地制度をめぐる紛争などが複雑に絡み合い、議会政治や帝国政策に大きな影響を与えた。

連合王国におけるアイルランドの位置づけ

19世紀初頭、1801年の連合法によりアイルランドはグレートブリテンと統合され、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の一部とされた。アイルランドは形式上は同一王国の一州であったが、政治・経済の中心はロンドンにあり、アイルランド人の多くは周縁的地位に置かれた。多数派であるカトリック住民は長く政治的権利を制限され、土地所有の多くはプロテスタント地主が握るという構造が続いた。19世紀半ばのジャガイモ飢饉は大量の餓死と移民を招き、このことがアイルランド問題への不満と民族意識の高揚を一層強めた。

宗教問題と土地制度

アイルランドでは、人口の多数を占めるカトリックと、政治・経済の支配層を構成するプロテスタント(とくに聖公会)との対立が深刻であった。国教会であるアイルランド教会への什一税負担、カトリック教徒の公職就任制限などは長く社会的不満の原因となった。また、地主がロンドンなどに在住し、現地の小作農民から高い地代を徴収する「不在地主」制度は、土地の所有と利用をめぐる対立を先鋭化させた。これら宗教と土地の問題が結びつき、のちにアイルランド土地連盟などの運動を通じてアイルランド問題の核心領域となっていく。

民族運動と自治要求の高まり

19世紀には、ヨーロッパ各地で民族運動が高まり、アイルランドでも独自の民族的アイデンティティを強調する動きが強まった。青年アイルランド党やフェニアン運動は、武力による独立を志向した急進的潮流として知られる。一方、議会内では自治(ホーム・ルール)を求める穏健な潮流が現れ、これがアイルランド問題をイギリス本国政治の主要争点へと押し上げた。同時期にロンドン政治では自由党保守党からなる二大政党制が確立し、両党がアイルランド政策をめぐって対立する構図が形成された。

グラッドストンとホーム・ルール

グラッドストン率いる自由党は、アイルランドの自治付与によって問題を解決しようとした。彼は1880年代にホーム・ルール法案を提出し、アイルランドに独自の議会を認めつつ、王国としての統一を維持する折衷案を構想した。しかし、第1次・第2次ホーム・ルール法案はいずれも議会内の激しい反発、とくに上院の反対によって挫折した。対するディズレーリ保守党は、帝国の統一とプロテスタント優位を重視し、アイルランドでの自治拡大に慎重であった。この対立構図は、ヴィクトリア朝政治の主要テーマの一つとして継続し、アイルランド問題を長期化させた。

アイルランド土地問題と社会改革

政治上の自治要求と並行して、農村社会では土地制度の改革が強く求められた。アイルランド土地連盟は、小作農民の地代引き下げや地位保障を訴え、ボイコット運動などの非暴力抵抗を展開した。これに対しイギリス政府は土地法改正を通じて、地代の公正化や小作人の権利保護を進めたが、地主と農民の利害対立は簡単には解消されなかった。土地制度は生活に直結するため、宗教や民族運動と結びついてアイルランド問題をより根深いものにしたのである。

20世紀初頭の危機と分割

20世紀初頭、第3次ホーム・ルール法案が提出されると、今度は北部アルスターのプロテスタント住民が強く反発し、自治に反対する武装組織まで結成された。第一次世界大戦中の1916年にはイースター蜂起が起こり、その鎮圧はかえって独立世論を拡大させた。戦後の独立戦争を経て、1921年の英・愛条約によりアイルランド自由国が成立するが、北東部の北アイルランドは連合王国に残留した。こうしてアイルランド問題は、一方では独立の達成、他方では北アイルランドにおける新たな宗派対立という形で継続することになった。

イギリス帝国とアイルランド問題の歴史的意義

アイルランド問題は、一国の地方問題にとどまらず、帝国統治と民族自決、議会主義と植民地支配という19世紀・20世紀世界史の重要テーマを体現している。イギリス本国では、アイルランド政策をめぐる対立が二大政党制の運営、社会改革、さらには帝国構想そのものを左右した。同時期の第二帝国や他のヨーロッパ諸国でも民族問題が政治の中心課題となっており、アイルランドの事例は、近代国家が多様な宗教・民族を抱え込むことの困難さを示す一例といえるのである。