『パンセ』パスカル

『パンセ』パスカル

『パンセ』とは、パスカルの主著で、『瞑想録』とも訳される。パンセ(pensee)とは、フランス語で考えること・思考という意味。924の断章からなる。長くて数ページ、短いものなら1行からなる。人びとを信仰へと導くためのキリスト教弁証論として書き始められ、完成することができなかった。そして、その断片的な原稿が友人たちによって編纂され出版されるにいたる。パスカルは、思想家、哲学者と同時に数学者、物理学者として偉大な業績をのこしており、科学者の視点で、人間の心の特徴を分析したと言われている。当時、数学や物理学の世界では、すべては因果関係の中で、決定論的に決っていると考える傾向にあったが、パスカルは人間の心の偶然性を尊重した。(繊細な精神と幾何学的精神)

『パンセ』パスカル

『パンセ』パスカル

幸福とは何か

私達の願望が、幸福な状態というものを私達の心に描き出してみせるからだ。

アキレスの亀のパラドックスと同じように私達が幸せになったと思うと同時にまた新しい幸せを作り出してしまう。これの繰り返しで我々はいつまでたっても幸せにならない。

名声について

人間は本質的に自己愛が強く、より誰かに認められたいと思う。それがもっとも最大な卑しさの起源である。しかしながらその自己愛こそが人間の卓越さの印であり、経済的・物質的に満たされたとしても自己愛が満たされない限り、人は満足できないからである。

人間の最大の卑しさは名声にある。

世間での地位が上がるに従って人は真実から遠ざけられてゆくものである。たとえば、ある王がヨーロッパ中の笑いものになっているのに、当の王はそのことを知らない、ということがしばしば起こる。真実を伝えることは、たいていは伝える人にとって不利に働くようだ。真実ゆえに憎まれることになるからだ。

叱責という苦い薬は相手の自己愛にとって苦いことにかわりはない。そしてたいていは薬をくれたひとにたいして、密かな恨みを抱くようになるのだ。

自己愛の本質とは自分しか愛さず、自分しか尊敬しないことだ。しかし次のような場合、人はどうしていいかわからなくなる。愛してやまない自分が実は欠点だかけで悲惨のどん底に有るのに為す術がない場合である。このような困惑の中に置かれると、人間の中に最も不正で罪深い情念が芽生えてくる。自分の欠点を誰にも知られないよう覆い隠そうと全力を尽くすのだ。

気晴らしと人間の尊厳

パスカルは、無為と倦怠こそが人間にとっての一番の苦悩であるとした。それを気晴らしによって解消することになるが、会話や賭けごとは一時的な逃避にすぎない。労働すらも気晴らしにすぎない。そして、それらすべては、死に対する気晴らしであるといえる。人間は生まれながら死に向かっている存在であるが、その死に対して壁を作り、気晴らしを絶えず作ることによって死を考えないようにしてしまう。さて、死を考えてしまうことは人間の固有の苦悩であり、原罪であるといえる。しかし、パスカルは、この考える事、それ自体が尊厳であるとも言う。考え続けることこそが人間の生きること、尊厳につながるとした。

私は人間の不幸はたったひとつのことから来ているという事実を発見した。人は部屋の中にじっとしたままでいられないということだ。会話や賭けごとなどの気晴らしにふけるのも、ただじっとしていられないからにすぎないからである。

「人間は考える葦である」パンセ

「人間は考える葦である」人間は一本の葦のように弱い存在であるが、考えることができる。その点で人間の尊厳を見出すことができる。私達の理性には限界があり、世界のすべてを知ることはできない。しかし、考えることが人間の人間たる所以であるならば、我々は考え続けなければならない。

人間は一本の葦にすぎない。自然の中でもっとも弱い生物のひとつにすぎない。しかしそれは考える葦なのだ。人間を押しつぶすためには全宇宙が武装する必要はない。一滴の水でさえ、人間を殺すに足りる。しかしたとえ宇宙が人間を押しつぶしたとしても、人間は宇宙よりも気高いといえる。なぜなら人間は自分が死ぬことを、宇宙の方が自分よりはるかに優位であることを知っているからだ。宇宙はこうしたことを知らない。ゆえに私達の尊厳はすべて考えることの中にある。私たちは、考えるというところから立ち上がらなければならない。よく考えることに努めなければならない。ここに道徳の真理がある。

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