標準水素電極
標準水素電極(Standard Hydrogen Electrode、略称SHE)は、水素イオンの活量が1、水素ガスの圧力が1 bar(100 kPa)という条件で、白金電極上の水素の酸化還元反応を平衡状態に保った電極である。その電位はどの温度でも0 Vと定義されている。電極1本の電位は単独では測定できない。そのため、各物質の標準電極電位はこの電極を基準にした相対値で表す。電池、電気めっき、腐食の解析など、電位を扱う分野では共通の「原点」として使われている。
水素が基準に選ばれた経緯
1889年にネルンストが電極電位と濃度の関係を式で示した。これにより、電位を比べるための共通の基準が必要になった。基準に水素が選ばれた理由は2つある。水素イオンはほぼすべての水溶液に含まれていること、そして2H+ + 2e− ⇄ H2の反応が白金の表面ですばやく平衡に達することである。20世紀初頭には、水素電極の電位を0とする取り決めが定着した。1913年には米国の化学者ヒルデブランドが、実験室で扱いやすい水素電極の構造を発表した。これをきっかけに、酸塩基滴定や水素イオン濃度の測定への応用が進んだ。
電極の構造と白金黒
電極の本体は白金の線または箔で、表面を白金黒で覆ってある。白金黒は、塩化白金酸(H2PtCl6)を1〜3%含む水溶液で電解して付ける。このとき微量の酢酸鉛を加えることが多い。黒く細かな粒子が積み重なるため、表面積は見かけの数百倍以上になり、平衡に達するまでの時間が短くなる。純度99.99%以上の水素ガスを溶液に吹き込み、白金の一部が気相に、残りが液相に触れるように配置する。測定する相手の電極とは塩橋でつなぎ、両者の間の起電力を高入力インピーダンスの電圧計で読み取る。
電位を決める条件と温度依存性
水素電極の電位は、ネルンストの式で次のように表される。
E = E° − (RT / F) ln [ (pH2 / p°)1/2 / aH+ ]
ここでE°は0 V、Rは気体定数、Tは絶対温度、Fはファラデー定数、p°は1 barを表す。25 ℃(298.15 K)では2.303RT/Fが0.05916 Vになるため、水素圧が1 barのときの電位は−0.05916×pH[V]となる。溶液のpHが1上がると電位は約59 mV下がる。この関係が、水素電極をpH測定の原理として使える根拠になっている。注意したいのは、活量1の理想的な溶液は現実には存在しないことである。標準水素電極は、希薄溶液での測定値を外挿して求める概念上の電極という性格を持つ。
標準圧力の変更
IUPACは1982年に、標準状態の圧力を1 atm(101.325 kPa)から1 bar(100 kPa)に変更した。この変更に伴う基準電位の差は約0.169 mVである。日常の測定ではほとんど問題にならないが、古い文献の熱力学データと組み合わせて精密に計算する場合は補正が必要になる。
NHE・RHEとの違い
名前が似ている水素電極がいくつかあり、論文や技術資料では取り違えが起こりやすい。主な違いを下の表にまとめる。
| 名称 | 電解液の条件 | 水素圧 | 電位の扱い |
|---|---|---|---|
| SHE(標準水素電極) | 水素イオン活量1の理想溶液 | 1 bar | 定義により0 V |
| NHE(規定水素電極) | 1 mol/Lの強酸 | 1 atm | 活量係数の影響でSHEと完全には一致しない |
| RHE(可逆水素電極) | 測定に使う溶液そのもの | 1 bar | pHによって変わる(25 ℃でSHEに対し−0.059×pH V) |
RHEは、燃料電池や水電解の触媒を評価する分野で標準的に使われる。電位の目盛りがpHと一緒に動くので、電解液の異なる試験データを比べやすいからである。触媒メーカーの資料を比較するときは、数値がSHE基準かRHE基準かを最初に確認する。アルカリ性の電解液(pH 14)では、両者の差は0.8 V以上に達する。
実験室での取り扱いと失敗しやすい点
水素電極は原理が単純な反面、維持管理には手間がかかる。白金黒は不純物を吸着しやすい。次の物質がわずかに混じるだけでも電位が不安定になる。
- 硫化水素などの硫黄化合物
- 一酸化炭素
- ヒ素化合物
- 水銀イオンやシアン化物
溶存酸素も電位を正の方向にずらす原因になるため、測定前に水素を十分に通気して追い出しておく。水素は空気中の濃度が4〜75 vol%の範囲で爆発性の混合気をつくる。ボンベの配管や換気にも気を配る必要がある。製造現場の品質管理でこの電極を常時使う例はまれである。ガス供給の設備、白金黒の付け直し、防爆への配慮を考えると、日常の管理には向かない。実務では、後で述べる銀塩化銀電極などで代用し、水素電極は校正や研究用途に限るのが一般的である。
実用参照電極との換算
実際の電位測定では、扱いやすい参照電極を使い、得られた値をSHE基準に換算する。25 ℃でSHEに対する電位は、飽和KCl溶液の銀塩化銀電極が+0.197 V、飽和カロメル電極(SCE)が+0.241 Vである。たとえばSCE基準で−0.500 Vと測定された電位は、SHE基準では約−0.259 Vになる。参照電極の電位は内部液の濃度と温度で変わる。そのため、カタログ値をそのまま使わず、試験条件に合った値で換算することが大切である。電子のエネルギー準位と比べるときには、SHEの絶対電位として約4.44 V(真空準位に対して)という値が使われることもある。
pH標準とハーンド電池
水素電極が今も第一線で使われている分野が、pHの一次標準である。液間電位差が生じないハーンド電池(Pt | H2 | 緩衝液, Cl− | AgCl | Ag)を組み、その起電力から標準緩衝液のpHを決める。日本では産業技術総合研究所の計量標準総合センターがこの方法で値付けを行っている。JIS Z 8802に定められたpH標準液、たとえば25 ℃でpH 4.01のフタル酸塩標準液は、こうした測定の流れに沿って値が決められている。工場や分析室で毎日校正されるガラス電極のpH計も、標準液を通じて最終的には標準水素電極の電位の定義につながっている。
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