フーヴァー
フーヴァーは、1929年から1933年までアメリカ合衆国第31代大統領を務めた政治家であり、鉱山技師、実業家、人道主義者としても知られる人物である。1920年代の繁栄の継続を掲げて大統領に就任したが、まもなく発生した世界恐慌への対応が不十分であったとみなされ、その評価は長く厳しいものであった。他方で、商務長官としての行政能力や、救済活動における献身は高く評価されており、近年ではその政策を再検討する動きもみられる。
生い立ちと鉱山技師としての成功
フーヴァーは1874年、アイオワ州ウェストブランチのクエーカー教徒の家庭に生まれた。幼くして両親を失い、親族に育てられるという厳しい境遇にあったが、学業で頭角を現し、スタンフォード大学で地質学と鉱山工学を学んだ。卒業後は鉱山技師として世界各地で活動し、中国やオーストラリアなどで鉱山経営に携わり、若くして巨額の財産を築いた。この国際的な経験は、後に第一次世界大戦後の食糧援助や復興政策において、広い視野と実務能力を発揮する基盤となったのである。
人道活動と商務長官としての活動
第一次世界大戦中、ヨーロッパが戦禍と飢餓に苦しむなかで、フーヴァーはベルギー救済委員会やアメリカ救済事業の指導者として活躍した。中立国を通じた食糧供給や資金調達を組織し、数千万規模の人々を飢餓から救ったとされる。戦後にはアメリカの食糧行政を担い、その手腕が評価されて1921年に商務長官となった。商務長官時代のフーヴァーは、統計整備や標準化の推進を通じて企業活動を支援し、技術革新と経済成長を後押しした。この時期の彼は、のちに大統領となるクーリッジ政権を支える実務家としても重要な役割を果たしたのである。
大統領就任と政策の特徴
1928年の大統領選挙で、フーヴァーは共和党候補として立候補し、1920年代の繁栄が今後も続くと訴えて圧勝した。就任当初の彼は、企業と政府の協調を重視する「協同主義」の立場から、市場経済の自律的な調整機能を信頼していた。彼の政治スタイルには、しばしば次のような特徴が指摘される。
- 民間の自発的協力による社会問題の解決を重視し、連邦政府の直接介入を抑制しようとしたこと
- 均衡財政を重視し、大規模な赤字支出には慎重であったこと
- 技術革新と生産性の向上が経済成長をもたらすという信念を持ち、企業や研究への支援を評価したこと
しかし、こうした基本姿勢は、未曾有の経済危機に直面したときに柔軟な政策転換を妨げたとされる。
世界恐慌への対応
1929年の株価暴落をきっかけに世界恐慌が深刻化すると、フーヴァー政権は当初、景気悪化を一時的な調整局面とみなし、大規模な公的救済には消極的であった。ただし、それでも彼は完全な「不介入主義者」ではなく、後には多くの政策を試みている。
- 公共事業の拡大により失業者に職を与えようとし、その一部は後にフーヴァーダム建設として結実した。
- 融資機関である復興金融公社を設立し、銀行や企業への資金供給を通じて金融システムの崩壊を防ごうとした。
- 農産物価格の下落に対処するため、買い上げや価格維持を目指す政策を実施した。
しかし、これらの措置はいずれも規模や速度の点で不十分であり、失業と銀行倒産の連鎖を止めるには至らなかった。そのため、後任のルーズベルトがニューディール政策を掲げて登場すると、フーヴァーは危機に適切に対応できなかった大統領として強く批判されることになった。また、財政均衡に固執したことが景気回復を遅らせたとして、後世にはケインズ経済学の観点から批判的に論じられている。
評価と晩年
1932年の大統領選挙で敗北した後も、フーヴァーは政界から完全に退くことはなく、第二次世界大戦後には行政改革委員会の議長として政府組織の簡素化や効率化を提言した。歴史学界では長らく、彼を「世界恐慌に無策であった大統領」とみなす評価が支配的であったが、近年では、当時としては前例のない介入政策を実施していた点を強調し、その限界と可能性を併せて検討する見解も広がっている。フーヴァーダムに象徴される公共事業や、人道主義者としての活動は、危機に直面した近代国家の対応を考えるうえで重要な事例であり、フーヴァーの生涯は20世紀前半のアメリカ合衆国政治史と経済史を理解する上で欠かせない存在となっている。
フーヴァーダムと記憶の継承
コロラド川の治水と発電を目的として建設されたフーヴァーダムは、しばしばフーヴァーの名前と結びつけて語られる。大恐慌期の公共事業としても知られ、経済危機下におけるインフラ投資の象徴となった。このダムは、単なる土木施設にとどまらず、技術・国家・指導者の関係を物語る記念碑的存在であり、その名に冠されたフーヴァーの評価もまた、時代とともに変化し続けているのである。