奉天派|清朝末期の政治勢力

奉天派

奉天派は、中国の軍閥割拠期に東北地方(旧満州)を支配した軍事・政治勢力である。末から民国初期にかけて東三省を掌握した張作霖・張学良父子を中心とし、日本の勢力とも密接に結びつきながら、直隷派安徽派と並ぶ有力軍閥として中国全体の政局に大きな影響を与えた。

成立の背景と勢力基盤

「奉天」は現在の瀋陽を中心とする旧奉天省を指し、日清戦争や日露戦争以降、この地域は列強の利権が集中する戦略的要地となった。辛亥革命後、北洋軍閥のもとで東三省巡閲使に就任した張作霖は、地方財政と軍隊を掌握し、独自の軍事勢力として奉天派を形成していった。鉄道・関税・鉱山などの経済基盤を背景に、同派は他地域の軍閥よりも豊かな財政力と近代的装備を備えていた。

張作霖期の支配と直隷派との抗争

指導者である張作霖は、軍事力を背景に北京の政局へ介入し、中華民国中央政府の要職に自派の人物を送り込んだ。1920年代前半には直隷派とのあいだで二度にわたる直奉戦争が起こり、華北の覇権をめぐる激しい攻防が展開された。張作霖は日本からの軍事援助や金融支援を受けつつも、列強間の均衡を利用して自立性を保とうとし、華北に強固な奉天派政権を築き上げた。

張学良と易幟・国民政府への合流

1928年、張作霖は奉天近郊で列車爆破に遭い死亡し、その後継として子の張学良が奉天派を継承した。張学良は北伐を進める蒋介石率いる南京国民政府との対決よりも提携を選び、同年末に「易幟」と呼ばれる旗替えを行って南京政府への服従を表明した。これにより東北地方は名目上、中国統一政権の一部とされ、軍閥割拠時代の終焉に向けて大きな転機を迎えた。

日本との関係と満州事変による崩壊

しかし、東北における日本の利権拡大は続き、関東軍は張学良政権のもとでの中国統一を脅威とみなした。1931年の満州事変では、奉天郊外の鉄道爆破事件を口実に関東軍が軍事行動を開始し、東北地方を急速に占領した。張学良は本格的な抗戦を行えず、軍を引き揚げたため、東北における奉天派の支配構造は事実上崩壊し、その後、日本の後押しで建国された満州国体制に取って代わられた。

評価と歴史的意義

奉天派は、地域軍事勢力としての軍閥であると同時に、満州の産業・交通を背景に列強と駆け引きしながら中国政治に大きな影響を及ぼした存在であった。その支配は、旧来の地方官僚制と近代的軍隊・企業経営が結びついた体制であり、植民地化と国民国家形成が交錯する20世紀前半東アジアの特質を体現していたといえる。一方で、日本の軍事行動に対して自主的な抵抗を組織できなかったことは、外部勢力への依存がもたらした限界を示し、後の抗日民族運動や中国統一運動が抱える課題を浮き彫りにした。