トーリ党
トーリ党は、17世紀後半から19世紀にかけてイングランドおよびイギリスで活動した保守的な政党であり、王権とイングランド国教会を擁護する立場を代表した政党である。ピューリタン革命後の混乱を経て成立した王政復古体制のもとで、チャールズ1世の息子であるチャールズ2世を支える政治勢力として登場し、同時期に形成されたホイッグ党とともに二大政党制の一翼を担った。19世紀には保守党(Conservative Party)へと発展し、その思想は現代保守主義の源流となっている。
成立の背景
17世紀のイングランドでは、ピューリタン革命と共和政を経て王権と議会の対立が深まっていた。1660年に王政復古がおこなわれ、チャールズ1世の処刑で一度断絶した王政が復活すると、王権の回復と国教会の再建が進められた。この時期、宮廷と地方ジェントリを中心に王権と国教会を支持する人々が集まり、のちにトーリ党と呼ばれる政治的グループが形成されていった。彼らは、都市の商人層や宗教的寛容を求める勢力からなるホイッグ党と対抗する保守派勢力であった。
名称の由来と社会的基盤
「Tory」という語は、本来はアイルランドの無法者をさす蔑称であったが、排除法危機期にホイッグ側が王党派を嘲って用いた呼称が定着し、政党名となった。トーリ党を支えたのは、地方のジェントルマン地主、国教会の聖職者、小農民などであり、伝統的秩序と身分社会を重んじる層が中心であった。
- 国王の世襲権と王権の尊重
- イングランド国教会の特権と非国教徒への制限
- 農村社会と土地所有を基礎とする保守的価値観
排除法危機と政治闘争
1670年代末から1680年代初頭にかけての排除法危機では、カトリック教徒である王弟ジェームズの王位継承をめぐって激しい政争が起こった。ホイッグ党がジェームズの継承権を否定する排除法を推進したのに対し、トーリ党は王位の世襲原理を守る立場からこれに反対した。チャールズ2世は審査法など既存の法律や官職任命を利用してホイッグ系を排除し、トーリ系を重用したため、トーリ党は王権と結びついた与党勢力として力を強めた。同時期に議会が制定した人身保護法は被拘禁者の権利を保障する法律であり、自由の原理を掲げるホイッグ党と秩序を重んじるトーリ党の対立を背景に成立したと理解されている。この過程で、議会内における恒常的な政党対立の枠組みが整い、のちのイギリス議会政治の確立につながっていった。
名誉革命後の展開
1688年の名誉革命によってジェームズ2世が追放され、立憲君主制が確立すると、トーリ党も新体制の下で政治参加を続けたが、王権よりも議会を重視するホイッグ党が長期政権を担う時期が多かった。トーリ党の多くは、国教会と結びついた保守的な農村エリートとして、革命体制を受け入れつつも王権と教会の権威を擁護し続けた。一部には追放された王家の復位を望むジャコバイトの傾向も残り、18世紀前半にはホイッグ優位のもとで野党勢力として活動することが多かった。
19世紀の変容と保守党への発展
18世紀末から19世紀にかけて、産業革命と都市化が進むと、地主を基盤とするトーリ党の伝統的勢力構造は揺らいだ。19世紀初頭にはピールら指導者のもとでカトリック解放や選挙制度改革への一定の妥協が進められ、従来の王党派から、秩序と漸進的改革を掲げる近代保守政党へと再編が進んだ。1830年代には、都市のブルジョワや一部の市民層も取り込みながら、新たに「保守党(Conservative Party)」と名乗る政党が形成され、その歴史的前身としてトーリ党が位置づけられるようになった。
イギリス政治史における意義
トーリ党は、王権・国教会・農村社会を基盤とする保守的勢力として、ホイッグ党とともに近世から近代にかけてのイギリス政党政治を形づくった政党である。彼らの政治思想は、急進的改革よりも慣習と秩序を尊重しつつ必要な改革を受け入れるという姿勢に特徴があり、その系譜は19世紀以降の保守党の政策に引き継がれている。こうした歴史的展開を通じて、トーリ党は議会主義の発展と保守主義思想の形成に大きな影響を与え、ヨーロッパの政党政治のモデルの一つとなったのである。