イギリス議会政治の確立|議会主導で王権を抑えた体制

イギリス議会政治の確立

イギリス議会政治の確立とは、国王の専制的な支配に対して、代表からなる議会が主権的な地位を獲得し、法と合意に基づく統治が制度として根づいていく過程を指す概念である。とくに17世紀のイギリス革命から18世紀初頭にかけて、王権が制限され、議会優位と立憲君主制が成立するまでの政治的変化が核心となる。この過程は、後の近代民主政の先駆けとして世界史的に大きな意味をもつ。

中世以来の議会と王権の関係

中世イングランドでは、1215年のマグナ・カルタによって国王にも法の拘束が及ぶという原理が確認され、王の恣意的課税に対する身分層の抵抗が制度化されていった。13世紀末には「模範議会」と呼ばれる代表制の会議が開かれ、聖職者・貴族・都市代表が招集される形が整う。しかしこの段階で、議会はあくまで国王が財政的協力を得るために召集する機関であり、政策決定の主導権はなお王にあった。中世後期からテューダー朝にかけて、国王は議会を通じて法を制定し課税を正当化する一方、王権そのものの権威は高く保たれていたのである。

テューダー朝からステュアート朝へ

16世紀のテューダー朝のもとで、宗教改革と主権国家の形成が進み、国王は教会改革や外交政策を主導した。ヘンリ8世やエリザベス1世は議会を巧みに利用しつつも、その開催をコントロールし、強力な王権を維持した。ところが17世紀に入りステュアート朝が成立すると、ジェームズ1世やチャールズ1世は王権神授説に依拠し、課税や統治に対する議会の関与を制限しようとした。この王による専制志向は、大陸の絶対王政と共鳴しつつも、議会側の抵抗を呼び起こし、やがて深刻な政治危機へとつながっていく。

清教徒革命と王権への挑戦

チャールズ1世が議会を長期にわたり召集しない「専制」を試みると、課税や宗教政策をめぐって対立が激化した。1628年の権利の請願では、議会が同意なき課税や不法逮捕の禁止を要求し、王権に対する法的制限を改めて主張した。やがて内戦が勃発し、議会派と王党派が武力衝突する清教徒革命の局面に入る。オリバー・クロムウェル率いる新模範軍は王党派を破り、1649年には国王チャールズ1世を処刑して共和政を樹立した。この時期の共和国・護国卿体制は軍事的独裁の性格も強かったが、国王といえども法に反してはならないという原理と、議会の同意のない課税は認められないという原則を一層鮮明にした点で、後のイギリス議会政治の確立に重要な前提を提供した。

名誉革命と権利章典

共和政崩壊後の王政復古を経て、ステュアート朝最後の国王ジェームズ2世は、カトリック回帰や専制的統治を進めたため、再び広範な反発を招いた。1688年、議会の指導層はオランダ総督ウィレムを招致し、ジェームズ2世を血を流さずに退位させる名誉革命を成功させる。1689年に制定された権利章典は、国王が議会の同意なく法を停止したり課税したりできないこと、選挙や議会での討論の自由などを成文の形で確認した。ここで国王は「権利章典を受け入れること」を条件として即位し、王権は法と議会に従属することが明確になったのである。この段階でイングランドでは、王と議会が共同で統治する立憲君主制の枠組みがほぼ整ったと評価される。

内閣と責任内閣制の形成

18世紀に入り、ハノーヴァー朝のもとで国王はドイツ出身で英語に不慣れであったため、議会との日常的な折衝を大臣たちに委ねる傾向が強まった。やがて有力な大臣たちが国王の信任だけでなく、下院多数派の支持を背景に政治を運営する「内閣」が形成される。ホイッグ党とトーリ党という二大政党の競合の中で、下院多数派を基盤とする首相が実質的な政権の長となり、内閣は議会、とりわけ庶民院に対して責任を負う制度が整えられていった。この責任内閣制こそが、後に各国が模倣する議院内閣制の原型であり、イギリス議会政治の確立を象徴する制度的な到達点である。

議会政治の社会的基盤と限界

他方で18世紀の議会は、選挙権が土地所有者などに限定され、貴族や地主階級が大きな影響力を持つ体制であった。都市と農村の人口分布に比べて議席配分が歪んだ「腐敗選挙区」も多く、必ずしも幅広い市民の意思を反映したものではなかった。それでも、商工業の発達とともに、都市のブルジョワ層が政治的発言力を高め、やがて選挙法改正による参政権拡大の要求へとつながっていく。こうした社会経済的変化が、議会政治の内容をより民主的な方向に押し広げる基盤となった。

世界史におけるイギリス議会政治の意義

イギリスで形成された議会中心の立憲君主制は、その後のアメリカ独立革命やフランス革命など、多くの政治変動に思想的・制度的な影響を与えた。権利章典が示した「権利の保障」や「代表なくして課税なし」という原則は、近代的な人権思想や代表制の展開にとって重要な参照点となる。また、内閣が議会多数派に対して責任を負うという仕組みは、現代の議院内閣制国家に広く受け継がれている。このように、17〜18世紀に進展したイギリス議会政治の確立は、単に一国の政治制度の変化にとどまらず、近代世界における法の支配と代表制のモデルとして、現在まで長期にわたる影響を及ぼし続けているのである。