クック
クックは18世紀に活躍したイギリスの海軍士官・探検家であり、太平洋世界の地図と航路を一変させた人物である。3度にわたる太平洋航海を通じて、ニュージーランドやオーストラリア東岸などの詳細な測量を行い、近代的な海図作成や航海術の発展に大きく寄与した。また、議会主権が確立していくイギリス革命後の王国が世界へ進出していくなかで生まれた代表的な探検家として位置づけられる。
出自と海軍士官への道
クックは1728年にイングランド北部ヨークシャー近郊で生まれ、若くして商船隊で働き始めた。その後、七年戦争期にイギリス海軍へ転じ、北米東岸やニューファンドランド沿岸の測量任務で才能を発揮し、精密な海図を作成したことで上官から高い評価を受けた。この時期、絶対王政を克服したステュアート朝後のイギリス国家は、強力な常備軍と海軍、発達した官僚制を背景に世界へ勢力を広げつつあった。
第1回航海とオーストラリア東岸の「発見」
1768年に始まる第1回太平洋航海でクックは、エンデバー号を率いてタヒチで金星の太陽面通過観測を行った後、ニュージーランドとオーストラリア東岸を詳細に測量した。この航海でグレートバリアリーフを含むオーストラリア東岸線を記録し、イギリスによる後の植民地化の基礎を築いた。議会と王権の関係をめぐり、かつてジェームズ1世やチャールズ1世が争った時代から発展した立憲体制の下で、海軍と科学探検が国家政策として推進された点も重要である。
第2回航海と南方大陸の否定
第2回航海でクックは、想像上の巨大な南方大陸「テラ・アウストラリス」を確認するため、南太平洋の高緯度海域を繰り返し航行した。彼は南極圏にまで到達し、氷に阻まれながらも広範な海域を測量した結果、当時想定されていたような巨大な未知の大陸は存在しないことをほぼ証明した。この成果により、世界地図は大きく書き換えられ、近代地理学と航海地理の基準が一段と精密になった。
第3回航海と最期
1776年からの第3回航海でクックは、北太平洋側から北西航路を探索する任務を負い、太平洋と北極海を結ぶ航路を求めて出帆した。その途上でハワイ諸島を訪れ、島民との関係は一時良好であったが、再訪時にトラブルが激化し、1779年ケアラケクア湾での衝突の中で命を落とした。この死は、太平洋におけるヨーロッパ人と先住民社会の関係が、しばしば緊張と暴力を伴ったものであったことを象徴している。
科学的業績と航海技術への貢献
クックの航海は、地理学・天文学・博物学など多くの分野を結びつけた総合的な科学プロジェクトでもあった。彼は船内の衛生管理や食事の工夫によって壊血病を大きく減少させ、長期航海の安全性を高めたほか、精密な観測と記録によって多くの島嶼や海岸線の位置を確定した。こうした成果は、後の帝国拡大と海上交易の発展にとって不可欠であり、議会主導で海軍力を整備した同君連合期以降のイギリスの海洋覇権を支える基盤となった。
帝国主義と太平洋世界への影響
クックの航海は、単なる地理的「発見」にとどまらず、イギリス帝国主義の前進基地を太平洋各地に築く契機ともなった。彼の残した詳細な海図は、オーストラリアやニュージーランド、太平洋諸島への入植や通商の拡大を促し、先住民社会の土地所有や生活文化に深い変容をもたらした。その背景には、王権と議会の関係を規定した権利の請願や、コモンローの伝統を理論化したコークらの法思想のもとで形成されたイギリス国家の構造もあり、政治史と海洋史は密接に結びついている。
歴史的評価
今日、クックは優れた航海者・科学的探検家として高く評価されると同時に、ヨーロッパ中心の視点から太平洋世界の秩序を再編した人物として批判的にも検討されている。彼の航海は、地図と知識の拡大という側面と、植民地支配と先住民社会の変容という側面を併せ持ち、その歴史的意義は一面的な英雄視でも一方的な告発でも捉えきれない。近世イギリスの政治・法・宗教をめぐる対立のなかで生まれた世界戦略が、海軍と探検を通じていかに地球規模の秩序形成へとつながったのかを考えるうえで、クックは不可欠な人物である。