建康
建康は中国江南の中心都市であり、現在の南京に相当する歴史都市である。三国期の呉が都した建業を継承し、西晋の動乱後に東晋が都を定めてから、南朝宋・斉・梁・陳に至るまで連続して王朝がここを首都とした。長江の要害と秦淮河の水運を背に、北方から移住した士族の拠点、貢易と手工業の集積地、そして文学・書法・仏教が花開く「六朝文化」の舞台となった点に特徴がある。国家が交替しても都市構造と人口が持続し、江南世界の政治・経済・文化の核として機能した点で、建康は中国都市史における画期である。
名称と位置
本来は三国期の呉で都城名を建業と称したが、西晋の瓦解後、琅邪王司馬睿が即位して東晋を立てると、都名を建康に改めた。長江下流北岸、秦淮河の河口域に位置し、北面は大河が外敵の進入を阻み、西北には石頭城(石城)と呼ばれる天然の高地が防衛線を形成した。内水系は城内外の運河網に連なり、米・塩・絹・木材の流通路として機能し、建康は江南全域の商物流通を統括する結節点となった。
歴史的展開
建康の都城としての発展は、三国期に孫権が長江制海権を握り、赤壁の戦いで曹操との決戦に勝利して江南を固めた段階に淵源を持つ。後に西晋が中国を再統一するも、永嘉の乱で北方が崩壊すると、江南へ避難した北方士族と王権が建康を基盤として東晋を成立させた。その後の南朝宋・斉・梁・陳はいずれもここを首都とし、政治秩序は交替しても都市は継続し、行政機構・市場・宗教施設が重層化していった。
- 東呉期(都は建業)—水軍と長江防衛を軸に江南支配が確立。
- 東晋期—北方の混乱により士族・人口・技術が流入し、建康が政権中枢に。
- 南朝宋・斉—北朝との境上に外交・軍事の調整機能が強化。
- 南朝梁—仏教都市化が進み、寺院・塔が景観を規定。
- 南朝陳—内戦と圧迫を受けつつも都市は存続、隋の南征で終焉。
地理と軍事
建康は長江という巨大な水障と、石頭城・台城などの高地に守られた堅城である。水運で兵糧・兵員を迅速に集結でき、北方騎兵の機動力を河川が遮断した。とはいえ、城内対立や叛乱に対しては脆弱で、梁末の侯景の乱では市街が荒廃し、王侯・寺院・市舶のネットワークが大損害を受けた。防御の堅固さと、内乱に対する脆さという両面性は、建康の都市運命を周期的に規定した。
政治と官僚制
建康では皇城・宮城を中心に台省・尚書省・門下省などが配置され、江南の郡県に対する任命・租税・軍需を統轄した。北方から来た士族は門第と婚姻で結合し、京畿の山水地形に邸宅と園林を築いて朝廷運営を担った。科挙整備前の九品中正制や清談の風潮は、政治文化を貴族的・文人的に彩り、宮廷と名士社会が建康の都市アイデンティティを形成したのである。
経済と都市生活
秦淮河の河岸には市が立ち、米・塩・絹・漆器・鉄器・陶磁が流通した。北方の戦乱で移入された熟練工や技術が手工業を高度化し、江南平野の新田開発と結びついて、建康は消費と再分配の巨大市場となった。水上交通の要衝であるため、税制は塩・運河通行と結び、宮廷・寺院・豪族の需要が職人層を支えた。夜の秦淮は船灯が連なり、音曲・行楽が都市文化として定着した。
宗教・学芸と六朝文化
建康では仏教の受容が進み、王権や豪族が寺院・塔を造営して信仰と都市福祉を支えた。書法・詩歌・山水志向の美意識が台頭し、文人は郊外の山水で清遊しつつ、都城のサロンで清談を繰り広げた。東晋・南朝期に成熟した書・画・文学の伝統は、後世の江南文化の母胎となり、都城景観と宗教空間が重層化することで、建康は「六朝」と総称される時代精神の象徴となった。
北朝との関係と外交
北方では曹丕に始まる魏晋秩序が崩れ、やがて北朝の再編が進む。江南の建康は、北朝との関係を戦と和の両面で調整し、長江を境にした勢力均衡を模索した。対外的には南海交易や南中との交流で香料・薬材・宝石が入り、財政の一部を支えた。三国期の劉備や曹操の競合、そして後漢の滅亡以後の分裂の時代という広い文脈の中で、建康は南朝世界の交渉の窓口であり続けた。
その後の変遷
589年、隋の南征によって陳朝が滅ぶと、建康の首都機能は一旦途絶えた。以後、唐代には江寧・金陵などの名称で州・府治として再編され、明初に南京が再び大都の地位を得るに至る。六朝の経験は都市基盤に刻まれ、城郭線や水利・市場の配置、文教・宗教施設の密集という形で後世の南京に継承された。都城が交替しても、長江・秦淮という自然条件に根差した都市継承こそが、建康の歴史的核心である。
考古遺構と研究の進展
城壁線と台城跡、石頭城の残構、秦淮河周辺の遺構や仏教関係の遺物は、六朝期の都市像を具体化する。出土瓦当や仏像・銘文は、宮殿・寺院・市舶の配置や工房の存在を示し、文献に見える建康の実像を補強する。発掘・測量・文献比定の往還が進むほど、江南都市史における建康の独自性—水上交通・王都機能・文人社会—が一層鮮明になっている。