孫権
孫権(字は仲謀、182–252)は、中国の三国時代に江東を統一し、「呉」(東呉)を建てた君主である。兄の孫策の遺業を継ぎ、長江流域の資源動員と水軍力を基盤に政権を拡大し、赤壁の戦いを契機に北方の曹操と対峙、後に即帝して皇帝権を確立した。若年で家督を継いだが、張昭・周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜らの人材登用に長け、協調と分業で国家運営を進めた点に特色がある。晩年は後継争いで政治が動揺したが、呉の制度・港湾都市発展・対外交易の基礎を築いた功績は大きい。
出自と継承
孫権は江東の有力者孫堅の次男として生まれ、兄孫策が建てた江東政権を200年に継いだ。当初は張昭・張紘ら宿老の補佐を受けつつ、郡県の掌握と山越平定を進めて治安と租税基盤を固めた。若年ながらも柔軟な統治姿勢で旧来豪族の協力を取りつけ、臨機応変の人事で政権の安定化を図った。
赤壁と長江水軍
208年、北方の曹操が南下すると、孫権は周瑜・魯粛の意見を容れ、荊州方面で劉備と連合して赤壁の戦いに臨んだ。周瑜の火攻と疫病の蔓延が重なり曹操軍は退き、長江の制水権は呉の手に移った。これ以後、呉は大型楼船と水軍運用を国家戦略の中核に据え、港湾・造船・塩鉄・木材供給の統制を強めた。この海陸複合力が呉の長期存続を支えた。
呉の統治と制度
孫権は官僚制の整備と地方分権の調整を並行させた。地方では豪族・士大夫の自立性を尊重しつつ、臨戦時には都督権限で軍政を統合する「柔剛併用」の統治である。屯田や移民政策で兵糧・兵員を確保し、銭穀の流通路を長江・運河・湖沼水系に再編、江南稲作と商業の接合を図った。臨海部では塩・鉄・漁撈・林産の生産管理を行い、国家収入の多角化を実現した。
年号と都城
220年に魏が建国されると、孫権は一時「呉王」となり、229年に武昌で即帝し、のち建業(建邺、今の南京)に遷都した。年号「黄武」以後、江東の皇帝権は儀礼・制度面で整備され、宮廷・中枢官制と地方軍政の二重構造が明確化した。
対魏・対蜀外交
呉は地政学的に魏・蜀の緩衝役を担い、同盟と対立を反復した。219年、呂蒙が荊州を急襲して関羽を討つと、蜀との関係は悪化するが、222年の夷陵で陸遜が劉備大軍を撃退し、長江上流の防衛線を確立した。以後、魏との関係改善・蜀との再接近を情勢に応じて切り替え、呉は「長江防衛・内海経済」という自国の利害を最優先する現実主義外交を貫いた。
人材登用と軍政
孫権の強みは人物鑑識であった。周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜を水陸作戦の要に配し、張昭・顧雍・歩隲・諸葛瑾らを政務・交渉に充てた。若手抜擢を惜しまず、呂蒙の学習を奨励した故事は「呉下の阿蒙に非ず」として知られる。軍政面では都督制で戦線を細分化し、前線裁量を広く認めることで機動力を高めた。
主要将帥(抜粋)
- 周瑜:赤壁の総帥として戦略主導。
- 魯粛:同盟調整と荊州政策で活躍。
- 呂蒙:荊州攻略、軍制刷新で名高い。
- 陸遜:夷陵で大勝し、後に丞相となる。
- 諸葛瑾:交渉・外交通を担い、秩序を支えた。
経済・社会と江南の発展
長江航路・会稽以東の港湾網・太湖水系の運搬力は、呉の国力の源泉であった。造船・羅針・船団運用の蓄積は沿岸社会の活性化を促し、手工業と市場が連動して中小都市が勃興した。移住民政策により技術と労働力が集積し、稲作・桑蚕・塩業・鉄生産が拡充、江南は三国期の新たな経済中心として浮上した。
後継問題と晩年
太子孫登の早世後、孫和(のち廃太子)と孫覇の対立が激化すると、朝廷は派閥抗争で疲弊した。晩年の孫権は均衡に苦心するが、政治の緊張は解けず、崩御後に幼帝孫亮(孫梁)—孫休—孫皓へと推移して呉は漸次硬直化した。制度の枠組みは残存したものの、人心と戦略一貫性の低下が末期の脆弱性を生んだ。
人物像と評価
孫権は剛毅と寛容を兼備し、状況判断に優れた。周囲の諫言を容れつつ最終判断で責任を負う姿勢は、江東という多民族・多利害の地域を束ねる上で適合的であった。他方、後継設計の動揺は国家に長期の陰を落とし、晩年の決断は評価が割れる。総じて、呉の建国者かつ制度設計者としての業績は、三国時代の均衡に決定的である。
史料と記憶
正史『三国志』呉書(陳寿)と裴松之注は孫権の政治・軍事を知る基本史料であり、逸話は文学・戯曲にも展開して後世のイメージを形づくった。赤壁・夷陵の二大転機、建業の都市形成、長江経済圏の統合という三点を押さえることで、呉政権の歴史的位置は明瞭となる。周瑜や劉備との関係性は物語化されやすいが、実像はより実務的で、海陸複合国家を運営した統合者であった。