後漢の滅亡|宦官外戚専横と黄巾の乱で三国へ

後漢の滅亡

中国史における後漢の滅亡とは、AD 220に献帝が曹丕へ帝位を譲り、漢王朝の系譜が断たれて魏が成立した事態を指す。だが終焉は一挙ではなく、宦官・外戚の政争、党錮の禁、飢饉と流民化、黄巾の乱、董卓の専横、群雄割拠という長期的崩壊過程の帰結である。国家の徴税・軍事・人事の統合が解体し、地方の豪族・軍閥が自立化、やがて三国時代の枠組みが定着した。

背景:宦官と外戚の対立

後漢中期、幼帝が続き外戚が政権を握る一方、宮廷内の宦官勢力が拡大した。166年と169年の党錮の禁は儒学官僚層を弾圧し、政治的正統性を著しく損ねた。十常侍に代表される宦官は人事と財貨を恣意的に操作し、地方官の統制も弛緩した。中央は名目のみを保ちながら、実質的な行政能力を喪失していく。

社会経済の動揺と豪族化

度重なる蝗害・旱魃・疫病は戸籍流出を招き、徴税・徴兵の基盤が縮小した。郷里の名家は寄客・佃戸を抱え荘園を拡大し、自主武装で郷里を守る「保郷」の名の下に私兵化を進める。豪族は地方官と結び、中央の命令を形式的に受け流す。こうして国家の軍事と財政は、次第に地方の自立的ネットワークへ転移した。

黄巾の乱(184年)の衝撃

張角率いる太平道の蜂起は、宗教結社・流民・貧農を糾合して帝国領域の広範を同時多発的に揺さぶった。朝廷は征伐に成功したが、討伐権限を通じて地方豪族・軍事指揮官に武装・徴発・任免の実権を与えたことが決定的であった。乱後も残党・山塞が継続し、正規軍の再建は進まず、軍事は群雄の手に移った。

董卓の入京と帝都の荒廃

189年、霊帝崩御を契機に董卓が入京し、少帝を廃して献帝を擁立、都を長安へ遷した。洛陽は焼亡し、王室の威信は地に落ちる。連衡する諸将は表向き「勤王」を掲げつつも互いに利害で対立し、董卓は呂布により誅殺されるが、権力の空白はさらなる割拠を促進した。

曹操の台頭と「挟天子以令諸侯」

196年、曹操は献帝を許に迎え、「挟天子以令諸侯」により軍事・法度・人事の名分を掌握した。200年の官渡の戦いで袁紹を破ると、黄河流域の穀倉・人材・冶金資源を吸収し、軍政の再編を進める。屯田や軍糧輸送の整備は持久戦体制を可能にし、漢王朝の権威は事実上、曹操の軍事政権の付属物となった。

赤壁の戦いと三分の構図

208年の赤壁で曹操は孫権・劉備の連合軍に敗北し、長江以南の制圧に失敗した。この挫折は江南の自立を確定し、荊・益・揚を核として呉・蜀の権力基盤が固まる。以後、華北の魏、四川盆地の蜀、江東の呉という地域的分業・補完関係が形成され、再統合のコストは飛躍的に上昇した。

制度面の変質:刺史・州牧の強化

本来監察官であった刺史は、2世紀末には兵権・徴発権を帯びる州牧へと転化した。中央が非常手段として地方に権限移譲した結果、州単位の軍政が常態化し、郡県制の一元的統治は空洞化する。名目の漢、実質の地方軍政という二重構造が、王朝の終焉を制度的に準備した。

献帝の禅譲(AD 220)

220年、曹操の死後に曹丕が魏王を称し、禅譲の儀により献帝は帝位を譲った。これは儀礼的には堯舜以来の「易姓革命」の古制を踏むが、実態は軍事・財政・人材の実権を掌握した新権力の制度化であった。ここに後漢の滅亡が確定し、漢の宗室は封爵を受けつつ政治核から退く。

影響と後続の秩序

禅譲によって正統が魏へ移ると、221年に劉備が蜀漢皇帝を称し、229年には孫権が呉で帝位に即いた。魏は九品中正制などの人材秩序を整備し、軍事・租税・移民を統合する「辺境国家」へ移行する。後漢の崩壊は、華北・西南・江南を結ぶ三極均衡の出発点となり、以後の南北分裂と再統一の長期潮流を方向づけた。

史料と叙述の視角

基礎史料は『後漢書』『三国志』、通史的再編は『資治通鑑』に拠る。宮廷・軍政史は豊富だが、地域社会の視点や環境要因、技術・物流の面は再検討の余地が大きい。近年は考古・出土文献により、豪族連合の実像、軍糧体系、長江航運の発達が具体化し、王朝崩壊を一元的説明ではなく多層的プロセスとして描き直している。