自由州
自由州とは、アメリカ合衆国において奴隷制を法的に禁止していた州の総称であり、特に19世紀前半から南北戦争開戦までの政治・社会対立を理解する上で中心的な概念である。これらの州は主として北部および中西部に位置し、奴隷制を維持した奴隷州と対立しながら、連邦議会における勢力均衡や新領土の編入問題をめぐって激しい政治闘争を展開した。自由州は単に奴隷制が存在しない地域というだけでなく、産業構造、社会思想、連邦制度の運用においても独自の性格を持ち、アメリカ史における「自由」と「平等」をめぐる論争の舞台となったのである。
自由州の成立と歴史的背景
アメリカ独立直後の13州の中にも奴隷制を容認する州と、徐々に廃止へ向かう州が混在していたが、18世紀末から19世紀初頭にかけてニューイングランドや中部大西洋岸の諸州は漸進的奴隷解放法を制定し、やがて自由州として位置付けられるようになった。連邦が西方へ領土を拡大するにつれ、新たに編入される州を自由州とするか奴隷州とするかは、上院における勢力均衡を左右する重大な問題となった。この緊張の中で生まれたのがミズーリ協定であり、北緯36度30分以北のルイジアナ取得地では奴隷制を禁止するという妥協線が引かれたことは有名である。
地理的広がりと新州編入
古くからのニューイングランド諸州(マサチューセッツ、ニューハンプシャーなど)やニューヨーク、ペンシルベニアをはじめとする中部諸州は早期に自由州となり、その後オハイオ、インディアナ、イリノイなど中西部の諸州が次々と自由州として連邦に加盟した。これらの地域は五大湖周辺からミシシッピ川流域にかけて広がり、農業とともに製造業・商業が発展した。またカリフォルニアはゴールド=ラッシュを背景に人口が急増し、1850年に自由州として編入されている。このように、自由州は大西洋岸から太平洋岸へと連なる広い帯状の地域を形成し、連邦の政治地図を大きく塗り替えたのである。
自由州と奴隷州の政治的均衡
自由州と奴隷州の対立は、連邦議会上院での議席数の均衡をめぐって先鋭化した。新州が編入される際には、自由州と奴隷州の数を同数に保とうとする慣行がしばしば意識され、ミズーリ協定や1850年妥協など一連の妥協策が試みられた。しかしカンザス=ネブラスカ法により、住民主権の名のもとで奴隷制の可否を地域住民の投票に委ねる方針が導入されると、カンザスでは流血を伴う衝突が起こり、もはや妥協による均衡が維持できないことが露呈した。こうして自由州は、連邦政府内で奴隷制拡大に反対する勢力の拠点として、政治的結集を強めていったのである。
経済構造と社会の特徴
自由州の多くは、工業化と商業資本の発達が進んだ地域であり、賃金労働と市場経済に基づく社会構造を持っていた。これに対して南部の奴隷州は、綿花を中心とする綿花プランテーション経済と奴隷労働に依存していた点で対照的である。自由州では都市化と交通網の整備、移民人口の増加、学校制度の整備が進み、新聞や出版を通じて政治的議論や改革思想が盛んに流布した。こうした社会基盤は、保護貿易や内国改良を重視する北部資本の利害とも結びつき、関税政策をめぐる北部と南部の対立にも影響を与えた。
自由州と奴隷制廃止運動
19世紀前半、自由州は奴隷制廃止論者や黒人解放運動の拠点となった。ボストンやフィラデルフィアなどの都市では、教会や印刷業を中心に反奴隷制の団体が結成され、新聞やパンフレットを通じて奴隷制批判が広まった。また、逃亡奴隷をカナダなどへ導く「地下鉄道」と呼ばれる支援ネットワークも、多くが自由州の住民によって運営された。しかし自由州の社会が完全に人種平等を実現していたわけではなく、自由黒人への差別や暴力も存在したため、自由州内部でも「いかなる形の自由が目標なのか」をめぐる議論が続いたのである。
州権主義・連邦主義との関係
自由州と奴隷州の対立は、単なる地域経済の違いにとどまらず、連邦政府と州の権限をどう分配するかという憲法解釈の問題にも直結した。奴隷州側が州権主義を掲げて自州の制度を守ろうとしたのに対し、自由州ではしばしば連邦政府に奴隷制拡大の抑止を求める声が強かった。特に新領土における奴隷制の可否をめぐっては、連邦議会が全国的原則を定めるべきだとする立場と、各州・各準州に決定を委ねるべきだとする立場が鋭く対立し、この憲法論争が南部諸州の分離独立論を正当化する論拠ともなった。
南北戦争への道と自由州の役割
1860年のリンカン当選は、アメリカ合衆国の政治的主導権が自由州側に移ったことを象徴する出来事であった。これを脅威とみなした南部の奴隷州は次々と連邦からの脱退を宣言し、連合国を結成して南北戦争が勃発する。戦争が進むなかで、奴隷制廃止は単なる戦時措置から国家の基本原理へと格上げされ、最終的に合衆国全体で奴隷制が廃止されるに至る。こうして自由州は、連邦の枠組みを維持しつつ奴隷制という制度そのものを終焉させる原動力として、19世紀アメリカ史の転換点に決定的な役割を果たしたのである。