州権主義
州権主義とは、アメリカ合衆国において各州が強い自治権と主権を持ち、連邦政府の権限をできるだけ限定しようとする政治思想である。建国以来の連邦制の枠組みの中で、どこまでを州が決め、どこからを連邦が決めるのかという境界をめぐる議論として発達した。とくに19世紀には、奴隷制や関税政策などをめぐって、州権主義が連邦政府への反発の理論として前面に押し出され、最終的には南北戦争へとつながる重要な要因となった。
アメリカ連邦制と州権主義の基本理念
アメリカ合衆国は、主権をもつ州が合意して連邦を構成するという発想から出発している。合衆国憲法第10修正は、連邦に委ねられていない権限は州または人民に留保されると定めており、ここから州権主義は正当性を引き出した。とくに中央集権への警戒心が強い政治勢力は、連邦政府の立法や行政が州の伝統・社会制度に介入することを批判し、「州こそが市民生活に最も身近な政治単位であり、政策決定において優先されるべきだ」と主張した。
- 州権主義は、地方自治と多様性を尊重する思想として理解される。
- 同時に、連邦政府による全国的な規制や改革を拒む論拠としても用いられた。
奴隷制と南部における州権主義
19世紀前半、南部の白人エリート層は、黒人奴隷制を自州の「内政問題」とみなし、連邦議会や北部世論がこれに干渉することを拒んだ。その際の主要な理論が州権主義であった。綿花栽培に依存する綿花プランテーション経済は奴隷労働に支えられており、奴隷制をめぐる対立は次第に北部対南部という地域対立に転化した。この構図は、のちにアメリカの南北対立として先鋭化し、南部諸州は自らの社会制度を守るために州権主義を強調するようになった。
関税・経済政策と州権主義
南部における州権主義は、奴隷制だけでなく経済政策をめぐっても現れた。工業化の進む北部は、国内産業を保護するための保護関税政策を支持したが、農産物輸出に依存する南部は輸入品の価格上昇を招く高関税に反対した。とくに19世紀前半には、サウスカロライナ州が不利な関税法を「違憲」と主張し、州の判断で無効化できると唱える無効化論が生まれた。この立場は、連邦政府より州の判断が優先されるとする急進的な州権主義の表現であり、連邦の統一を脅かすものとして大きな政治危機を引き起こした。
西漸運動・フロンティアと州の裁量
西部への領土拡大が進むなかで、新しく成立する州で奴隷制を認めるかどうかは、州権主義の重要な争点となった。西漸運動とフロンティアの開拓は、合衆国に新たな州を次々と加える過程でもあり、そのたびに各州がどのような権限を持つかが問題となった。南部は新州に奴隷制を認めさせることで自らの政治的勢力を維持しようとし、その根拠として州権主義を掲げたが、北部は奴隷制の拡大に反対し、この対立は連邦政治の安定を大きく揺るがした。
南北戦争と州権主義の挫折
1860年代に入ると、南部諸州は連邦政府が奴隷制に制限を加えることは州の権利の侵害であると主張し、合衆国からの離脱を宣言してアメリカ連合国を樹立した。ここでは州権主義が最終的に「連邦からの脱退」という形で表現されたことになる。しかし南北戦争における北部の勝利によって、連邦は解体されないという原則と、合衆国憲法の最高性が改めて確認された。以後、州が一方的に連邦法を無効化したり、連邦から離脱したりする権利が認められることはなく、強硬な形での州権主義は大きく後退した。
南北戦争後の州権主義と人種問題
南北戦争後、憲法修正により奴隷制は廃止され、法の下の平等がうたわれたが、南部諸州は人種隔離政策や選挙権制限を正当化するために、再び州権主義を持ち出した。彼らは、人種関係の規制は州の権限であり、連邦政府や連邦裁判所が介入すべきではないと主張したのである。このように州権主義は、黒人差別を維持するための政治スローガンとしてもしばしば用いられ、20世紀の公民権運動期にも、連邦による学校統合や選挙権保障に反対する側の論拠として繰り返し掲げられた。
評価と歴史的意義
州権主義は、一方で地方自治や多様な社会制度を認める原理として、アメリカ政治文化の重要な要素であり続けている。他方で歴史的には、奴隷制や人種差別といった不平等な秩序を守るための論理として動員されてきた側面も大きい。そのため今日では、州権主義を評価する議論は、自由と自治を重んじる積極的側面と、不正義の正当化につながった消極的側面の両方を踏まえて検討される必要がある。