第1次日韓協約
第1次日韓協約は、1904年8月に日本と大韓帝国とのあいだで締結された協約であり、日本が韓国政府内部に財政・外交の顧問を常駐させる権限を獲得したものである。これにより韓国の内政・外交は日本の強い影響下に置かれ、形式上の独立を保ちながらも実質的には主権が大きく制約されることになった。協約は日露戦争期の軍事的優位を背景に結ばれ、その後の第二次・第三次日韓協約、さらには日本の韓国併合へと至る過程の重要な一段階をなす。
成立の背景
19世紀末、朝鮮半島は列強の利害が交錯する地域となり、日本・清・ロシアなどが影響力拡大を争っていた。日清戦争後、清の後退により日本の影響力はいったん強まったが、三国干渉を経てロシアの進出が加速し、韓国宮廷内では親日派と親露派が激しく対立した。1895年の閔妃暗殺事件は王宮政治を大きく動揺させ、韓国の外交基盤を弱体化させた。さらに中国では北清事変と辛丑和約を通じて列強による半植民地化が進み、朝鮮半島も同様の運命をたどるのではないかという危機感が高まっていた。
協約の締結過程
1904年に日露戦争が勃発すると、日本は朝鮮半島を軍事行動の兵站・作戦基地と位置づけ、韓国政府に対して日本軍の自由な行動と施設使用を認めさせた。そのうえで日本政府は、韓国の内政改革と財政整理を名目として、政府中枢に日本人顧問を受け入れるよう強く要求した。戦局が日本に有利に展開するなかで韓国側は有効な対抗手段を欠き、皇帝高宗は国内の反対も抱えつつ第1次日韓協約に署名するに至ったとされる。
協約の主な内容
第1次日韓協約は条文数こそ多くないが、その内容は韓国の政治運営に重大な転機をもたらしたと評価される。とくに重要な点は次のように整理できる。
- 韓国政府は財政顧問として日本人を登用し、その助言に基づき財政再建を行うこと
- 外交顧問として日本人を任用し、条約締結や外国との交渉についてその意見を聞くこと
- 顧問の意見は単なる参考ではなく、実質的に政策決定に強い拘束力を持つこと
名目上は「顧問」であっても、実際には韓国政府の財政・外交権限に日本の統制を加える制度であり、主権国家としての自立性を著しく損なうものであった。
韓国主権と社会への影響
第1次日韓協約によって、日本は韓国の財政収入や予算配分を把握し、国庫整理や債務処理の名目で政策に介入することが可能となった。また外交顧問を通じて条約交渉や外国との折衝を事実上統制し、韓国が他の列強から支援を得る余地を狭めた。こうした動きは韓国知識人や官僚のあいだに強い反発を呼び、一部は亡命や抵抗運動へと向かったが、軍事力・財政力に勝る日本の圧力の前に広範な統一行動には発展しなかった。
列強との関係と国際環境
日本は第1次日韓協約によって韓国支配の実績を積み上げる一方、列強との外交交渉を通じてその地位を国際的に承認させようとした。日露戦争終結時にはポーツマス条約でロシアに韓国に対する日本の「指導権」を認めさせ、さらにアメリカとの桂=タフト協定、ロシアとの日露協約、フランスとの日仏協約などを通じて、韓国を日本の勢力圏とみなす考え方を列強に浸透させていった。このような国際環境の変化は、韓国が日本の支配構造から離脱する可能性を一層小さくした。
その後の日韓関係における位置づけ
第1次日韓協約は、形式的には韓国の独立を前提としつつ顧問制度を導入した点で、のちの保護条約よりも穏やかな段階とみなされることが多い。しかし実質においては、韓国の財政と外交という国家主権の中核に日本の監督権を設定した点で決定的な意味を持ち、第二次・第三次日韓協約を通じた保護国化、さらには1910年の日本の韓国併合に向かう出発点となった。同時期に日本は満洲で南満州鉄道を経営し、遼東半島の関東州を租借するなど大陸進出を進めており、朝鮮半島の支配強化はその戦略の一環として位置づけられるのである。