甲午農民戦争
甲午農民戦争は、1894年に李氏朝鮮末期の朝鮮半島で起こった大規模な農民蜂起である。東学と呼ばれる新興宗教を思想的基盤とし、重税や地方官吏の腐敗、外勢の干渉に苦しむ農民が決起した民衆運動であり、その過程で清・日本両国の出兵を招き、結果として日清戦争の直接的契機となった出来事として位置づけられる。宗教運動・社会運動・民族運動の性格を併せ持ち、近代朝鮮社会の矛盾と変革要求を集中的に示した事件である。
背景 ― 李氏朝鮮社会の矛盾と列強の進出
甲午農民戦争の背景には、19世紀後半の清や日本、西洋列強による東アジア進出があった。開港以後、朝鮮は不平等条約と通商の拡大によって伝統的な経済構造が揺さぶられ、米価の変動や商人資本の浸透が農村を直撃した。中央政府は軍制改革や財政改革を試みたが、地方では依然として両班・官吏による収奪が横行し、農民の負担は増大した。さらに、清と日本は朝鮮をめぐる勢力争いを続け、1880年代には壬午軍乱や甲申政変が発生し、その処理をめぐって天津条約が結ばれるなど、朝鮮は宗主国清と日本の対立の舞台と化していた。このような国際環境の中で、社会的不満と民族的危機感が複雑に絡み合い、爆発点に達していったのである。
東学の教えと農民の不満
甲午農民戦争を主導したのは、19世紀半ばに崔済愚が開いた東学(朝鮮固有の宗教運動)を継承した東学党であった。東学は「人乃天」の平等思想や在来の儒教・民間信仰を取り入れつつ、西学(キリスト教)や外勢を批判する教えを説いた。地方社会では、地主層と官吏が結託して年貢と様々な雑税を課し、私的な賄賂や不正取り立てが横行していたため、東学の教えは貧困と差別に苦しむ農民の間に急速に広がった。一方、宮廷内部では近代化を志向する開化派と保守派が対立し、政治的混乱が続いていた。こうしたなかで東学党は、単なる宗教結社を超えて、腐敗官僚の排除と社会改革を掲げる草の根の政治勢力として成長していった。
第一次蜂起と全州占拠
1894年春、全琫準ら東学指導者は、全羅道古阜郡での過酷な税の取り立てに抗議して蜂起し、これが甲午農民戦争の出発点となった。蜂起軍は「倭洋を斥け、貪官汚吏を除く」ことを掲げ、周辺農民の支持を得ながら勢力を拡大し、やがて全羅道の中心都市全州を占拠するに至った。朝廷軍は当初これを鎮圧できず、政権内部では事態収拾のための妥協策が検討された。全州で結ばれた全州和約では、農民軍が一時的に解散する代わりに、地方行政の改革や民怨の解消を目的とする「執綱所」の設置が認められ、農民側は表向き勝利を収めたかに見えた。しかし、改革の実施は遅れ、根本的な矛盾は解消されなかった。
清・日本の出兵と日清戦争への連動
朝鮮政府は、全州占拠という非常事態に対処するため宗主国である清に出兵を要請し、これに応じた清軍が派兵された。これに対して日本は、先の天津条約に基づき、清軍派遣への対抗措置として自国軍の派兵を決定した。こうして国内の農民反乱であった甲午農民戦争は、清・日本両国軍の緊張を高める契機となり、やがて1894年夏の日清戦争勃発へとつながっていく。日本は朝鮮改革を名目に軍事介入を拡大し、宮廷内の勢力図は急速に日本優位へと傾斜した。この過程で、朝鮮の主権は一層侵食され、農民の要求した自主的な改革とは異なる方向で政治秩序が再編されていった。
第二次蜂起と徹底鎮圧
全州和約後も地方の腐敗や外勢の干渉は止まず、清日両軍の対立が激化する中で、東学勢力は再び武装蜂起に踏み切った。これが甲午農民戦争の第二次蜂起であり、南部の農民軍は北上して官軍や日本軍と各地で交戦したが、近代兵器と訓練を備えた軍隊を相手に劣勢を強いられた。全琫準をはじめとする主要指導者は逮捕され処刑され、農民軍は組織的抵抗を続ける力を失った。戦乱の後、朝鮮政府は日本の主導のもとで「甲午改革」と呼ばれる近代化政策を進めたが、それは農民の自発的要求を汲み上げたものというよりも、日本の利益と支配構想に沿った体制改編であった。
歴史的意義と評価
甲午農民戦争は、一国の農民反乱であると同時に、列強の帝国主義的進出が進む中で、社会正義と民族自立を求めた大衆運動として理解されている。農民たちは、貪官汚吏の排除や税制の公正化、身分差別の是正を訴え、近代的な「民権」意識の萌芽を示した。また、この戦争が清・日本両国の軍事介入を呼び込み、結果として日清戦争と李氏朝鮮体制の動揺を加速させた点で、東アジア国際秩序の転換点ともなった。後世の歴史学においては、単なる暴動ではなく、近代朝鮮社会における民主化と民族解放の先駆的運動として高く評価されており、その意義は東アジア全体の近代史を理解するうえで欠かせないものとなっている。