森鴎外|諦念,「かのように」の哲学,『舞姫』『雁』他

森鴎外

森鴎外は近代日本の代表的な文学者である。主著は『舞姫』『雁』『阿部一族』『山椒太夫』『高瀬舟」『渋江抽斎』。森鴎外は明治時代当時の自然主義文学を批判し、近代的な自我を追求するロマン主義の文学を書いた。そのような自我意識の高まりの方で、『妄想』や『かのように』では、社会の諸制度や価値観を仮のものとして傍観するニヒリストの態度もみせた。晩年の歴史説では、江戸の封建社会の中で、おのれの運命に澄んだ心境で従容と従う人、理不尽な運命に反抗する意地をみせておのれの面目をほどこす武士封建的束縛の中にあって悠々と内面的自由の境地に生きた市井の民などの姿を描いた。そして、それらの人物像を通して、歴史における自己の社会的責務と、内面的な自我の欲求や自己感情との対立を表現した。そこには文学者として強い自我の欲求を持ちながらも、軍医総監として国家組織のエリート官僚でもあった森鴎外自身の心の葛藤が表現されている。

森鴎外の生涯

石見国(島根県)の津和野やで、代々続く藩医の家に生まれる。藩校で漢文を学ぶが、10歳で父とともに東京に出、東京医学校予科(のちの東京大学医学部)に入学し、19歳で卒業する秀才ぶりをみせた。陸軍軍医となり、軍隊における衛生学を研究・講義した。22歳から4年間、ドイツに留学して衛生学を学んだ。帰国時、『舞姫』のモデルとされるドイツ人女性のエリスが後を追って来日したが、森鴎外は彼女と会うことなく帰国させた。勤務のかたわら創作にも力を入れ、坪内逍遙と没理想論争を交わし、雑誌『しがらみ草紙』を創刊して、創作・評論・翻訳・医学の著述に精力的に打ちこんだ。勢力争いに巻きこまれて37歳のときに九州の小倉に左遷されたが、やがて東京に戻り、45歳で軍医として最高の地位である陸軍軍医総監の医務局長に昇進した。口語体小説『半日』(明治42年)を書いて文壇に復帰した。その後、雑誌『昴』に『青年』、『雁』などを発表するなど精力的に作品を発表した。1912(明治45)年、明治天皇の崩御に殉じた乃木希典大将の死に衝撃を受け、『興津弥五右衛門の遺書』を書いた。これを皮切に、多くの歴史小説、史伝を発表した。54歳で現役をしりぞいて帝室博物館総長兼図書頭に任じられ、60歳で死去した。遺言によって役所や軍からの一切の栄典を固辞し、墓石には森林太郎という本名だけが彫られた。

諦念(レジグナチオン・諦め)resignation

諦念(レジグナチオン・諦め)とは、個人と社会の葛藤において、あくまで自己を貫くのではなく、自己の置かれた立場を見つめて受け入れることによって心の安定を得る、あきらめの哲学である。陸軍軍医総監に着任して以降の作品から見られる、森鴎外の特色である。かっては啓蒙思想の傾向が色濃く見られたが、大逆事件などをきっかけに諦念の傾向が強まった。当時の森鴎外の苦悩と諦念は『かのやうに』(明治45年)から『鎚一下』(大正2)に見られる。

父の平生を考えてみると、自分が遠い向こうにある物を望んで、目前の事を好い加減に済ませて行くのに反して、父はつまらない日常の事にも全幅の精神を傾注しているということに気づいた。宿場の医者に安んじている父のレジグナチオン(諦念・諦め)の態度が、有道者の面目に近いことが、朧気ながら見えてきた。『カズイスチカ』

大逆事件

大逆事件とは、明治43年(1910)におこった国家権力による社会主義者に対する弾圧事件で、幸徳秋水ら十二名が死刑になった。森鴎外は自らが身を置く国家権力の横暴さを痛感し、悩みを深め、諦念の想いが深まっていった。

「かのように」の哲学

森鴎外は、真理とは生活に有用な仮構(フィクション)にすぎないというドイツのファイヒンガーの哲学に強く影響されている、神や義務は事実として証拠立てられないが、それが「あるかのように」見なすことで社会が成立しているという考えである。科学的合理性と日本神話の非合理性との矛盾に悩んだ末、学問でも芸術でもすべて実在しない者を存在するかのように想定するところから出発していると考えることによって、「事実として証拠立てられない」ものをとがめだてまいとする〝「かのように」の哲学〟にその解決を求めようとしている。

『舞姫』

『舞姫』(1890 明治23)は主人公太田豊太郎の回想という形で書かれている。国家から派遣されてベルリンの自由な空気にふれ、純粋無垢な踊り子エリスと恋に落ちるが、そのため苦境におちいり、親身な友人のすすめで帰国を決意するが、それを知ってエリスは発狂する。国家や社会・家族など、周囲から期待される役割と近代的自我の対立・葛藤を描いている。

『興津弥五右衛門の遺書』

『興津弥五右衛門の遺書』(1912 大正1)初稿の森鴎外の最初の時代小説である。将軍乃木希典が明治天皇崩御身にあたり殉死したことを受けて、一気に書きあげられた。主君から受けた恩のために殉死でした興津弥五右衛門の姿をかりて、忠義に生きる人間のあり方と乃木への心情をあらわしたもの。

『阿部一族』

『阿部一族』(1913(大正2)は、主君の死に際して殉死を願い出たものの、許されずに面目々を失った武士が、おのれの死を賭として面目をほどこし、意地をつらぬくさまを描いた。『興津弥五右衛門の遺書』と並び、1912(明治45)年の明治天皇崩御の際に殉死した、乃木希典将軍の割腹事件を題材にしている。

『高瀬舟』

『高瀬舟』(1916 大正5)年に発表した、安楽死をテーマにした小説。江戸時代、京都から高瀬川をくだって罪人を護送する船に、喜助という罪人が乗っていた。喜助の弟は、病苦からのどにカミソリを刺して自殺をはかるが、死にきれず血まみれで苦しむ。喜助は苦しむ弟に頼まれて、のどからカミソリを抜いて弟を死なせ、人殺しとして島送りになる。喜助を護送する同心は、弟を殺したことは罪に違いないが、それが弟を苦しみから救うためであったと思うと、そこに疑いが生じてどうにも解けぬと語る。

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