愛国社第4回大会と国会開設運動の組織化
愛国社第4回大会は、1879年(明治12年)11月に大坂で開催された自由民権運動の全国大会であり、全国各地から代表者が集結して国会開設を求める大規模な署名運動を組織的に展開することを決議し、翌年の国会期成同盟結成への決定的な足掛かりを築いた歴史的な政治会合である。
愛国社の再興と地方結社の台頭
1875年に挙行された大阪会議の結果、板垣退助が参議として政府に復帰したことで、中心組織を失った愛国社は事実上の解散状態へと追い込まれた。しかし、その後の政局の混乱や地租改正への根強い不満を背景として、地方では豪農や旧士族を中心とした新たな政治結社が次々と誕生した。1877年の西南戦争終結により武力による政府対抗が限界を迎えると、運動の矛先は言論と組織化へと明確に向けられるようになった。1878年9月に高知で開催された再興大会を経て、愛国社は再び全国の民権派を繋ぐ中心組織としての機能を回復し始める。この時期の自由民権運動は、単なる政府批判の域を超え、具体的な代議制の確立と国民の政治的権利の保護を求める建設的な国民運動へと変貌を遂げつつあった。高知の立志社が主導する形で、地方の有力者が大坂へと集う準備が進められたのである。
第4回大会の開催と代表者の顔ぶれ
1879年11月26日から大坂の天満本願寺別院などで開かれた愛国社第4回大会には、全国2府22県から約80名の代表者が参加した。参加者の顔ぶれは非常に多彩であり、土佐派の重鎮である片岡健吉や植木枝盛をはじめ、北陸地方の民権運動を牽引した杉田定一、さらには九州や東海地方の代表者などが一堂に会した。この規模の拡大は、民権思想が都市部の知識層だけでなく、地方の村落や生産現場を支える名望家層にまで深く浸透していたことを如実に示している。会議では組織の運営規約が詳細に整備され、加盟する各結社間の連絡体制や運動経費の分担方法が具体化された。これにより、愛国社は単なる緩やかな連絡協議会から、中央集権的な指導力と全国的なネットワークを併せ持つ「政治結社の連合体」としての性格をより強固なものにしたのである。
国会開設請願署名運動の決議と戦術
この大会における最大の焦点であり成果となったのは、政府に対して国会の開設を直接要求する「国会開設請願書」を提出するため、組織的な署名運動を展開することを正式に決定した点にある。参加者たちは、翌1880年の春までに各地で署名を集め、次回の大会でそれを一挙に集約して政府に突きつけるという具体的な行動計画を共有した。これは、単に演説会などで自由を唱える段階から、数万、数十万という国民の意志を署名という形式で可視化し、政府を実力で動かそうとする高度な戦術的転換であった。この運動を通じて、板垣退助らは国民一人ひとりに政治参加の当事者意識を喚起し、専制的な政府に対して無視できない民意の圧力を加えることを狙ったのである。この決定は、運動の質を単なる嘆願から主権的な要求へと引き上げる歴史的な意義を持っていた。
国会期成同盟への発展的解消への道のり
愛国社第4回大会で合意された署名運動は、地方の府県会議員や地方名望家らとも密接に連動しながら、爆発的な勢いで全国に広がった。署名者は短期間で約8万7千人に達し、民権運動はかつてない高揚期を迎えた。1880年3月に開催された次回の大会において、集まった膨大な署名をもとに、愛国社は請願運動をより強力かつ永続的に推進するための常設組織である国会期成同盟へと発展的に解消されることとなった。この一連の流れにおいて、第4回大会はまさに「点」として存在した各地方の熱量を「線」から「面」へと繋げた重要な結節点であり、日本の近代民主主義形成の過程で欠かすことのできない役割を果たした。この大会での組織論的な議論がなければ、後の帝国議会開設に向けた国民的な広がりは得られなかったと言っても過言ではない。
署名運動における社会的広がりと豪農の役割
署名運動の成功には、地方の有力者である豪農層の物心両面にわたる協力が不可欠であった。彼らは民撰議院設立建白書が提示した「租税を払う者が政治に関与する」という理念に共鳴し、自分たちの納める税金がどのように使われるかを決定する権利を、国会という場を通じて確保しようとした。各地の政治結社は、この大会の決定を受けて全国で演説会を開催し、新聞や雑誌などのメディアを活用して情報を拡散することで、一般民衆の中にも国会開設への期待と熱狂を醸成していった。このような草の根の活動が、従来の武力蜂起とは異なる次元で、明治政府を震え上がらせるほどの巨大なうねりを作り出したのである。
政府による弾圧と集会条例の制定
民権運動の全国的な組織化に対し、明治政府は極めて強い危機感を募らせた。愛国社第4回大会の決議に基づく請願書が1880年4月に提出された際、政府はこれを受理せず門前払いにするという強硬な態度で臨んだ。さらに、運動を根底から封じ込めるために集会条例を即座に公布し、政治的な集会や結社の活動を厳しく制限した。これにより、警察官の立ち会いなしでの集会は禁止され、複数の結社による共同活動も違法とされた。このような法的な弾圧にもかかわらず、愛国社が生み出した全国的な組織化の流れは止まらず、運動はより洗練された政党結成の動きへと継承されていった。