広東国民政府
広東国民政府は、軍閥割拠が続いた中国において、南方で孫文が樹立した革命政権であり、後の国民政府や北伐に先立つ実験的な政府である。首都北京に拠る北洋軍閥政府に対抗し、広東地方を基盤として統一と革命を掲げたこの政権は、軍事力に依存しつつも、三民主義を掲げた近代的な共和国建設を目指した点に特徴がある。
成立の背景
広東国民政府成立の背景には、辛亥革命後の中華民国が安定した統一政権を持てなかった事情がある。北方では北洋軍閥が権力を握り、形式上は共和国でありながら軍閥間抗争が続いた。一方、南方では革命の正統を自任する孫文が、広東を拠点に反軍閥・反帝国主義の勢力結集を進めた。広東は港湾都市・広州を擁し対外貿易や華僑資本の集まる地域であり、財源確保や対外連絡の面でも革命政権を維持しやすい条件を備えていた。
孫文による政府の樹立
孫文は、広東軍閥勢力の支援を得て非常大総統として政権を樹立し、これが広東国民政府と呼ばれる。名目上は北京政府に対抗する正統な中華民国政府を自任し、全国統一のための軍事行動や憲政の回復を掲げた。政権基盤には軍閥部隊や地方有力者、商人層、華僑の資金などが混在し、近代的な政党政治と旧来の軍事力・後援ネットワークが複雑に絡み合っていた。この段階での中国革命は、まだ統一された近代政党である中国国民党の指導の下にはなく、政治組織の整備が大きな課題となっていた。
軍閥との連携と対立
広東国民政府は、広東軍閥との協力によって成立したが、そのことは同時に脆さの原因ともなった。軍事力を握る軍閥側は、地方支配や利権維持を優先し、全国規模の革命や統一政策に必ずしも積極的ではなかった。やがて孫文と軍閥指導者の対立が激化すると、広東政権は軍事クーデターにより崩壊し、孫文は一時的に広東を離れざるをえなくなる。この経験は、軍閥依存ではなく、近代政党と独自の軍隊を持つ必要性を自覚させるきっかけとなり、後の中国国民党の再編へとつながった。
広東国民政府の政策と特徴
- 広東国民政府は、三民主義を掲げ共和国体制の確立を目指したが、その内容はのちの新三民主義ほど体系化されてはいなかった。
- 政権の財源は、関税・塩税・対外借款、さらに華僑からの献金など多様であり、地方政権としての限界を抱えつつも、独自に行政・財政制度の整備を試みた。
- 帝国主義列強の勢力が強かった華南に拠点を置いたことで、反帝国主義の姿勢が強調され、後の連ソ容共扶助工農路線や反帝国主義運動の先駆けと評価される。
崩壊と広州国民政府への継承
広東国民政府は軍事的対立によっていったん崩壊したが、その後、ソ連の支援と中国共産党との協力を得て、孫文は広州に革命政権を再建する。この再建政権が、狭義の広州国民政府として知られ、やがて中国国民党の本格的な党再編や中国国民党一全大会へと結びついていく。ここで掲げられた新三民主義や連ソ容共扶助工農の方針、さらには第1次国共合作は、北伐および後の国民政府樹立の思想的・組織的基盤となった。
歴史的意義
広東国民政府の意義は、辛亥革命後に挫折しかけていた中国革命を、南方から再起させる政治的な拠点を提供した点にある。軍閥割拠の時代にあって、孫文が実際に政権を運営しながら統一・革命を追求した経験は、のちの中国国民党政権や北伐の構想に直接つながった。また、この政権の失敗は、軍閥との一時的妥協にとどまらず、党と軍を一体化させた独自の革命政権を築く必要性を明らかにし、その教訓は広州国民政府から南京国民政府、さらには国民政府の中国統一へと引き継がれていったのである。