外国官|明治初期の外交を担った中央官庁

外国官

外国官(がいこくかん)は、明治維新期の慶応4年(1868年)1月から明治2年(1869年)7月まで設置された、新政府における外交事務を司る中央官庁である。維新政府が発足した直後の三職制度における「外国事務総督」を前身とし、その後の政体書に基づく太政官制(七官制)の導入によって、外交専任の機関として確立された。外国官は、幕末から続く諸外国との条約継承や、開港場における外交実務、さらにはキリスト教問題(浦上四番崩れ)への対応など、新国家としての国際的地位を確立するための重要な役割を担った。その後、明治2年の官制改革にともない、現在の外務省へと発展的に解消された。

設置の経緯と変遷

慶応4年1月17日、新政府は三職(総裁・議定・参与)の下に「外国事務科」を設置し、有栖川宮熾仁親王、山階宮晃親王、伊達宗城、小松帯刀、後藤象二郎らを知事・副知事に任命した。同年2月には「外国事務局」へと改編され、本部を京都に、分局を大坂に設置した。さらに同年閏4月の「政体書」公布により、七官の一つとして外国官が正式に発足した。外国官の首脳には知事や副知事が置かれ、実務は判事や権判事が分担した。初期の外国官は、旧幕府から引き継いだ外交案件の整理とともに、諸外国に対して新政府の正統性を認めさせる「万国公法」に基づく外交交渉を主導した。

組織と主要な官吏

外国官の組織は、知事(長官)を筆頭に、副知事、判事、権判事、執事などの階級で構成されていた。初代の外国官知事には宇和島藩主であった伊達宗城が就任し、実務面では薩摩藩の小松帯刀や、海外事情に通じた五代友厚、寺島宗則らが中心となって活躍した。特に大坂の川口に設置された外国官局は、当時の外交の中心地として機能し、パークス(英)やロッシュ(仏)といった駐日公使らとの直接交渉の場となった。外国官に所属した官吏の多くは、後の外務省においても引き続き中枢を担い、近代日本外交の基礎を築くこととなった。

主要な外交課題と対応

外国官が直面した最大の課題は、戊辰戦争の最中における諸外国の「局外中立」を維持させること、および旧幕府が締結した条約の遵守を宣言することであった。慶応4年1月15日には、神戸で発生した神戸事件への対応を迫られ、新政府は迅速な処置によって外交的危機を回避した。また、キリスト教信仰を理由とした長崎の信徒弾圧(浦上四番崩れ)については、諸外国から強い抗議を受けたが、外国官は「邪宗門の禁止」という国法を盾に交渉を続けた。さらに、外国官は開港場である横浜、兵庫、長崎などの管理・運営を行い、貿易の安定と通商の拡大を図るための行政機能も果たした。

外務省への移行

明治2年(1869年)7月、新政府は中央官制の抜本的な改革を行い、二官六省制を導入した。この改革により、それまでの外国官は廃止され、新たに「外務省」が設置された。外国官知事であった伊達宗城は民部卿へ転じたが、寺島宗則や澤宣嘉らが外務省の初期体制を支えた。外国官から外務省への移行は、単なる名称の変更にとどまらず、それまでの合議制的な要素を排し、より強力な権限を持つ近代的な外交機関としての体制整備を意味していた。外国官が約1年半の短期間に果たした外交上の実績は、日本が不平等条約の改正を目指す長い道のりの第一歩として高く評価される。

各地の外国事務局

外国官の下部組織として、主要な開港場や要地には個別の事務局が置かれた。例えば、横浜には「横浜裁判所」から改称された「神奈川裁判所」が外交実務を兼ね、兵庫には「兵庫裁判所」が設置された。これらの地方組織は、現地の外国人居留地とのトラブル解決や、輸出入貨物の通関事務、外国人の保護などを担当した。外国官はこれら地方の拠点を統括することで、全国的な外交政策の一貫性を確保しようと努めたのである。

外交官養成の萌芽

外国官の時代には、体系的な外交官教育制度は未整備であったが、語学に堪能な者や海外経験を持つ人材が積極的に登用された。外国官での実務経験は、後に岩倉使節団に同行する若手官僚や、各国の公使館に赴任する職業外交官たちにとって貴重な実践の場となった。このように外国官は、組織面だけでなく人材面においても、日本の近代外交を支える苗床としての役割を果たしたといえる。

役職 主な就任者 備考
知事 山階宮晃親王、伊達宗城 最高責任者
副知事 三条実美、東久世通禧、鍋島直正 知事を補佐
判事 小松帯刀、寺島宗則、五代友厚 実務の統括

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