固体潤滑剤
固体潤滑剤とは、固体のまま摺動面の間に入り込み、摩擦と摩耗を低減する物質の総称である。代表例は黒鉛、二硫化モリブデン、PTFE(ポリテトラフルオロエチレン)などで、油やグリースが使えない高温、真空、極低温、薬品雰囲気といった条件下で用いられる。粉末のまま使う方法のほか、被膜として部材表面に固着させる方法、樹脂や金属に練り込んで複合材料とする方法もある。適用範囲は自動車部品から人工衛星の機構部まで幅広い。
液体潤滑が通用しない場面
一般的な鉱油系の潤滑油は、おおむね150℃を超えると酸化劣化が急速に進む。300℃前後になると、蒸発や炭化によって潤滑膜そのものが失われてしまう。宇宙空間のように10-5Pa以下の高真空では、油が蒸発して周囲の光学機器を汚染するおそれがある。食品機械や半導体製造装置のように、油分の飛散そのものを嫌う設備も少なくない。こうした条件で摺動部を守る手段として発達してきたのが固体潤滑剤である。液体は流体膜で荷重を支えるが、固体は自分自身が薄くせん断されることで相手面との直接接触を防ぐ。この仕組みの違いによって、使える環境の幅が大きく広がった。
層状結晶がすべる理由
黒鉛や二硫化モリブデンに潤滑性があるのは、結晶が層状構造をとっているためである。層の内部では原子同士が強い共有結合で結ばれている。ところが層と層の間は弱いファンデルワールス力でしかつながっていないため、わずかなせん断力で層がずれる。トランプの束を横から押すと、カードが1枚ずつ滑っていく様子に近い。二硫化モリブデンでは硫黄・モリブデン・硫黄の3原子層が1単位となり、その繰り返し間隔は約0.62nmとされる。層の表面は相手材に付着しやすく、摺動を繰り返すうちに相手面へ薄い移着膜ができる。その結果、固体同士の接触でありながら摩擦係数は0.05〜0.1程度まで下がる。PTFEは層状結晶ではない。しかし直鎖状の分子が摺動方向にそろって並び、薄い膜を残すため、似た効果を示す。
代表的な材料と使用温度
材料を選ぶときは、使用温度と雰囲気の組み合わせでほぼ決まる。下の表に主な材料の目安を示す。ただし数値は純度、荷重、湿度によって大きく変わる。そのため設計段階では、実機に近い条件で往復摺動試験やピンオンディスク試験を行うのが通例である。
| 材料 | 大気中の使用上限(目安) | 真空中の適性 | 摩擦係数(目安) | 主な用途 |
|---|---|---|---|---|
| 黒鉛 | 約450℃ | 不適 | 0.1〜0.2 | 炉内搬送、鍛造の離型 |
| 二硫化モリブデン | 約350℃ | 優れる | 0.03〜0.1(真空中) | 宇宙機器、ねじ、ボルト |
| PTFE | 約260℃ | 可 | 0.04〜0.1 | 摺動ブッシュ、パッキン |
| 六方晶窒化ホウ素 | 約900℃ | 可 | 0.2前後 | ガラス成形、高温離型 |
| 二硫化タングステン | 約500℃ | 優れる | 0.03〜0.1 | 高温軸受、精密機構 |
黒鉛と二硫化モリブデンの逆転現象
同じ層状物質でも、黒鉛と二硫化モリブデンは湿度に対して正反対の性質をもつ。黒鉛は層の間に水蒸気などが吸着して、はじめて低摩擦になる。そのため乾燥窒素中や真空中では摩擦係数が0.5近くまで跳ね上がり、急激に摩耗する。二硫化モリブデンは逆で、湿気を含む大気中では少しずつ酸化して三酸化モリブデンに変わり、性能が落ちる。人工衛星の機構部に二硫化モリブデンが選ばれ、黒鉛がほとんど使われないのはこの性質のためである。
供給形態の選び方
同じ材料でも、摺動部へどう届けるかで寿命も費用も大きく変わる。工業的には次の形態が使い分けられている。
- 粉末:そのまま擦り込むか、鍛造型へ吹き付ける。安価だが、摺動面にとどまりにくい。
- 油・グリースへの添加:二硫化モリブデンを3〜5%配合した極圧グリースが代表例。油膜が切れたときの焼付き防止に効果がある。
- 乾性被膜:樹脂バインダーに固体潤滑剤を分散させ、スプレーで塗ったあと加熱して硬化させる。膜厚は5〜20μmが一般的。
- 物理蒸着膜:スパッタリングなどで1μm前後の緻密な膜をつくる。寸法精度の厳しい真空機器向け。
- 複合材料:青銅やポリアセタールに練り込むか、固体潤滑剤を埋め込んだ無給油軸受にする。
現場で起きやすい失敗と施工のコツ
乾性被膜で最も多いトラブルは、被膜が早く剥がれることである。原因の大半は前処理の不足にある。脱脂だけで塗装した部品と、ショットブラストやリン酸塩処理で表面を粗らしてから塗装した部品とでは、往復摺動試験での寿命に数倍の差が出ることも珍しくない。焼付け型の被膜は150〜200℃で30〜60分ほど加熱して硬化させる。焼入れ鋼の部品では、この温度が焼戻し温度を下回っているかを事前に確認しておきたい。コストの差も大きい。スプレー塗布の乾性被膜は小物なら1個あたり数十円程度から対応できる。これに対し、スパッタ膜は真空装置でのバッチ処理になるため、同じ小物でも単価がひと桁上がる。量産のボルトやスライドレールには乾性被膜、ミクロン単位のすきまを守りたい真空機器には蒸着膜、と使い分ける現場が多い。もう一つ見落とされやすいのは、液体と違って潤滑剤が自然に補給されない点である。膜が摩耗しきった時点が、そのまま部品の寿命になる。
宇宙開発がもたらした進歩
固体潤滑の技術が大きく進んだきっかけは、1960年代の宇宙開発競争である。人工衛星の太陽電池パドル展開機構やアンテナ駆動部は、打ち上げ後に整備ができない。しかも真空にさらされ、−100℃から+100℃に及ぶ温度変化を受ける。NASAなどの研究機関は、二硫化モリブデンのスパッタ膜や、銀・鉛などの軟らかい金属をイオンプレーティングした軸受を開発し、長期間の無給油運転を実現した。日本でも1969年に発足した宇宙開発事業団が評価試験を重ね、国産衛星に採用してきた経緯がある。こうした成果は地上の製品にも広がった。現在では、自動車エンジンのピストンスカートに施す樹脂系被膜や、半導体搬送ロボットのクリーンルーム対応軸受などで固体潤滑剤が日常的に使われ、摩耗対策として欠かせない存在となっている。
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