労兵評議会
労兵評議会は、第一次世界大戦末期からドイツ革命期にかけて各地で結成された労働者と兵士による評議会組織であり、帝政崩壊と革命の過程で重要な役割を果たした政治主体である。これらの評議会は、戦争と飢餓に疲弊した民衆や兵士の利害を代表しつつ、旧体制から新秩序への権力移行の場として機能し、同時に社会主義的変革をめぐる政治勢力間の対立の舞台ともなった。
概要と成立背景
労兵評議会は、工場の労働者からなる「労働者評議会」と、前線や基地の兵士からなる「兵士評議会」が結合した組織である。1918年秋、ドイツ帝国は総力戦の長期化によって経済的にも軍事的にも行き詰まり、食糧不足やインフレに苦しむ都市労働者、無意味な突撃を強いられる兵士の不満が爆発的に高まっていた。こうした状況のもとで、既成政党や官僚機構ではなく、現場の労働者と兵士自身が自律的に政治に参加する形として評議会が登場したのである。
第一次世界大戦とドイツ社会
第一次世界大戦は、ドイツ社会に前例のない動員と犠牲を強いた。戦時統制経済による配給制や賃金抑制は、都市の工業労働者の生活を圧迫し、ストライキの頻発を招いた。この戦時体制を理解するには、戦争と国家・社会の関係を扱う第一次世界大戦や戦時外交と総力戦に関する議論が不可欠である。政治的には、体制内改革を志向する社会民主党と、より急進的な社会主義勢力との分裂が進み、こうした党派対立が後の労兵評議会内部にも持ち込まれることになった。
ロシア革命とソヴィエトの影響
1917年のロシア革命は、ドイツの反戦運動と革命運動に強い刺激を与えた。ペトログラードなどで権力機関として登場したソヴィエト(評議会)は、「労働者と兵士が自らを代表する集団」というモデルを具体的に提示したのである。ドイツの急進派はロシアのソヴィエトを参照し、議会制民主主義よりも評議会型民主主義を重視する構想を唱えた。この影響のもとで、ドイツ各地の労兵評議会も、単なる一時的抗議組織にとどまらず、「新しい国家権力」の核として構想されるようになった。
キール軍港の水兵反乱と各地への波及
労兵評議会の本格的な成立の第一歩は、1918年11月のキール軍港の水兵反乱である。敗色濃厚な状況にもかかわらず大海戦への出撃を命じた海軍上層部に対し、水兵たちは命令拒否と蜂起によって応じた。キールでは兵士評議会が組織され、武装した水兵と労働者が港湾と市街を掌握した。この動きは鉄道網を通じて瞬く間にドイツ全土に広がり、ハンブルク、ブレーメン、ベルリンなどの都市で次々と労兵評議会が誕生し、帝政打倒と停戦要求の大きなうねりを形成した。
政治勢力と労兵評議会
労兵評議会内部では、多様な政治勢力が主導権を争った。多数派社会民主党(MSPD)は、革命の急進化を避けつつ、議会制共和国の樹立をめざして評議会を安定化の装置として利用しようとした。一方、独立社会民主党やスパルタクス団などの急進派は、評議会を恒久的な権力機関とし、資本主義の打倒と社会主義への移行を主張した。この対立はドイツ革命全体の方向性を左右し、しばしば街頭での武力衝突や武装蜂起に発展した。
ワイマール共和国成立と労兵評議会の終焉
1918年11月の皇帝退位と共和国宣言の後、臨時政府にあたる「人民代表評議会」は、選挙で選ばれた国民議会に立法権を移行させる方針を採用した。これにより、評議会は暫定的な存在と位置づけられ、徐々に権限を縮小されていった。1919年の国民議会選挙とワイマール共和国憲法の制定に伴い、正式な国家機構としての評議会システムは解消され、多くの労兵評議会は工場委員会や労働組合組織に吸収されていった。
歴史的意義
労兵評議会は、帝政ドイツの崩壊と共和制への移行に決定的な影響を与えただけでなく、労働者と兵士が政治主体として直接的に行動した経験を蓄積した点で重要である。その運動は、議会制民主主義と評議会制民主主義のどちらを重視するのかという問題を提起し、20世紀のドイツ政治史およびヨーロッパ左翼運動の核心的な論点となった。また、評議会の経験は後のワイマール共和政の不安定性や、労働運動内部の路線対立を理解するうえでも欠かせず、ロシア革命やソヴィエトとの比較研究、さらには第一次世界大戦後のヨーロッパ秩序の再編を考える上で重要な手がかりを提供している。