内モンゴル|中国の広大な草原地帯

内モンゴル

内モンゴルは、中国北部に広がる広大な自治区であり、北は独立国家であるモンゴル国、北東部はロシアと接する国境地帯を形成する地域である。中国語では「内蒙古自治区」と呼ばれ、歴史的にはモンゴル民族の居住地のうち、中国側に残った部分を指す概念として用いられてきた。「内」と「外」の区別は中国側から見た地理的・政治的区分に由来し、外モンゴルが現在のモンゴル国に相当するのに対し、内モンゴルは中華王朝・近代中国国家の枠内に組み込まれてきた。

地理と自然環境

内モンゴルは東西に長く、東部は森林と農耕地帯、西部は砂漠と草原が広がるなど、多様な自然環境をもつ。黄河が大きく湾曲する「オルドス地方」やゴビ砂漠周縁部などが含まれ、古くから遊牧と農耕が交錯するフロンティア地帯であった。首府フフホトや包頭などの都市が発達し、鉄道や道路網を通じて中国本土とモンゴル国を結ぶ交通の要衝ともなっている。

住民構成と社会

内モンゴルの住民は、モンゴル族のほか、漢族、回族など複数の民族から構成される。伝統的にモンゴル族は草原での遊牧を営み、漢族は農耕・商業に従事することが多かったが、近現代の開拓や工業化の進展により民族構成や居住パターンは大きく変化した。モンゴル語と中国語が併用され、学校教育や行政においても二言語体制がとられてきたが、その具体的運用は時期によって揺れ動いている。

古代からモンゴル帝国までの歴史

内モンゴルの草原地帯は、古代以降、匈奴や鮮卑など遊牧国家の活動の舞台であり、華北の農耕国家と対立・交易を繰り返してきた。中世には契丹による遼王朝や女真族による金王朝などが興り、この地域を支配した。やがてチンギス・ハンに始まるモンゴル帝国がユーラシアに拡大し、中国本土には王朝が成立すると、モンゴル高原と華北は政治的にも一体的に統治されるようになった。

明・清と内モンゴル

が滅亡し明が興ると、明王朝は北方からの侵攻を防ぐため長城を整備し、農耕世界と草原世界を区分しようとした。これに対しモンゴル諸部族は分裂と再編を繰り返しながらも独自の勢力を維持した。その後、満洲族の王朝が興隆すると、清はモンゴル諸部を「旗」と呼ばれる軍事・行政単位に編成し、皇帝に直属する形で統合した。この体制のもとで、現在の内モンゴルにあたる地域は清帝国の版図に組み込まれ、首都北京を北方から守る重要な境界地帯とみなされた。

清末・民国期の変動

19世紀末から20世紀初頭にかけて、清朝の弱体化と列強の進出により、モンゴル高原は国際政治の争奪の場となった。1911年の辛亥革命によって清が倒れると、外モンゴルは中国からの分離を進め、のちのモンゴル国へとつながる。一方、現在の内モンゴル地域は、形式上は中華民国の領域にとどまりつつ、北洋軍閥や日本の関東軍など、複数勢力の影響を受けた。日本は満洲に満州国を樹立し、一部モンゴル地域に親日的な自治政権を作ろうとしたが、戦後これらの体制は崩壊した。

中華人民共和国と内モンゴル自治区

第二次世界大戦後、中国では国共内戦を経て中華人民共和国が成立した。その過程で共産党はモンゴル民族との協調を重視し、1947年には中華人民共和国成立に先立って内モンゴル地域に自治区政府が設立された。これは中国における少数民族自治区の先駆例とされ、のちにチベットや新疆など他地域の民族自治区制度のモデルとなった。とはいえ、土地改革や文化大革命期の政治運動、改革開放期の市場経済化などは、モンゴル族社会にも大きな変化と緊張をもたらしている。

経済発展と環境問題

改革開放以降、内モンゴルは豊富な石炭やレアアースなどの地下資源により、中国のエネルギー・資源供給基地として急速な経済成長を遂げた。都市部では鉱業や重工業が発展し、鉄道・道路網の整備も進んだ。その一方で、過放牧や無秩序な開発による砂漠化・草地の劣化が深刻な環境問題となっており、政府は植林や放牧制限などの対策を進めている。伝統的な遊牧生活と資源開発・工業化との調和をいかに図るかが、現在の内モンゴルにとって重要な課題となっている。