伊東マンショ
伊東マンショ(いとう まんしょ、永禄12年/1569年頃 – 慶長17年10月21日/1612年11月13日)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリシタンであり、日本初の公式な欧州派遣使節である天正遣欧少年使節の主席正使を務めた人物である。日向国の大名であった伊東氏の血筋を引いており、幼名は虎千代、諱は祐益といった。伊東マンショは、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって選抜され、13歳という若さで海を渡り、ポルトガル、スペイン、そしてイタリアを巡った。彼の存在は、当時のヨーロッパ社会において「東洋の文明国から来た貴公子の象徴」として熱狂的に受け入れられ、ローマ教皇への謁見という歴史的快挙を成し遂げた。帰国後は、豊臣秀吉によるバテレン追放令や徳川幕府による禁教政策という厳しい時代の中で信仰を貫き、日本人初の司祭の一人として、九州を中心に布教と信徒の指導に命を捧げた。
出自と幼少期
伊東マンショは、日向国都於郡城(現在の宮崎県西都市)の城主であった伊東祐兵の従兄弟にあたる伊東祐青の子として生まれた。当時の九州は、島津氏の勢力拡大により伊東氏が没落の危機に瀕しており、伊東マンショの一家は豊後国(現在の大分県)の大友宗麟を頼って落ち延びた。この縁がきっかけとなり、彼はキリスト教と出会うこととなる。有馬のセミナリヨ(神学校)の第一期生として入学した彼は、ラテン語やキリスト教神学、さらには音楽や西洋文化を学び、その聡明さと気品ある立ち振る舞いから、ヴァリニャーノによって使節の正使に抜擢されたのである。伊東マンショという洗礼名は、聖マンスエトゥスに由来している。
天正遣欧少年使節の旅路
1582年(天正10年)、伊東マンショを筆頭とする4人の少年たちは、長崎の港からポルトガルの船に乗って出航した。マカオ、ゴア、喜望峰を経由し、2年以上の歳月をかけて1584年にポルトガルのリスボンに到着した。伊東マンショは使節団のリーダーとして、各地の王侯貴族や枢機卿と堂々と対話し、その教養の高さでヨーロッパ人を驚嘆させた。スペインでは国王フェリペ2世に謁見し、トスカーナ大公国やヴェネツィア共和国など、イタリア各地の諸都市で熱烈な歓迎を受けた。伊東マンショは、行く先々で「日本という国は、ヨーロッパに匹敵する高度な道徳と文化を持つ国である」という印象を植え付けることに成功したのである。
ローマでの栄光
1585年3月、伊東マンショ一行はついに目的地であるローマに入った。彼は、教皇グレゴリウス13世との謁見を果たし、自らが持参した大友宗麟の親書を奉呈した。この謁見の数日後に教皇が崩御するという事態に見舞われたが、続くシクストゥス5世の戴冠式にも参列し、ローマ市民権を授与されるという破格の待遇を受けた。伊東マンショは、サン・ピエトロ大聖堂での儀式において、最前列で教皇の傍らに控えるなど、日本の代表として極めて高い名誉を授かった。この時期の彼の活動は、当時の欧州で多くの印刷物として記録され、日本をキリスト教世界の新たな光として紹介する役割を果たした。
帰国後の苦難と司祭への道
1590年(天正18年)、8年にわたる旅を終えて伊東マンショは日本に帰国した。しかし、当時の日本は秀吉によるバテレン追放令が出された後であり、かつての熱狂的な歓迎とは対照的な、厳しい現実が待ち受けていた。彼は聚楽第で秀吉の前で西洋音楽を演奏し、仕官を勧められたが、これを辞退して神に仕える道を選んだ。1591年には天草のコレジオに入り、その後マカオでの神学修行を経て、1608年に長崎で司祭に叙階された。伊東マンショは、日本人司祭として迫害の手が伸びる中、小倉や中津などの各地を巡回し、地下に潜った信徒たちを励まし続けた。1612年、激務と病が重なり、伊東マンショは長崎の地でその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年43歳前後であった。
天正遣欧少年使節の構成と役割
| 役職 | 氏名 | 主な出身地・背景 |
|---|---|---|
| 主席正使 | 伊東マンショ | 日向国・伊東氏一族。大友宗麟の代理。 |
| 正使 | 千々石ミゲル | 肥前国・大村純忠および有馬晴信の代理。後に棄教。 |
| 副使 | 中浦ジュリアン | 肥前国・中浦城主の子。後に殉教し、福者に列せられる。 |
| 副使 | 原マルチノ | 肥前国・波佐見の豪族。語学に優れ、翻訳に従事。 |
後世への影響と評価
- 西洋における日本観の形成:伊東マンショたちの訪問により、ヨーロッパに初めて正確な日本地図や文化情報がもたらされた。
- 活版印刷術の導入:使節団はグーテンベルクの活版印刷機を持ち帰り、キリシタン版と呼ばれる日本語書籍の刊行に貢献した。
- 肖像画の発見:2014年、イタリアで伊東マンショを描いたとされる肖像画(ドメニコ・ティントレット作)が発見され、大きな話題となった。
- 不屈の信仰:禁教という逆境下で、特権階級の地位を捨てて宣教師として生きた姿勢は、日本のキリスト教史において高く評価されている。
伊東マンショゆかりの地
宮崎県西都市には、伊東マンショの生誕を記念する銅像が建立されており、彼の功績を現代に伝えている。また、彼が学んだ大分や長崎の地にも、使節団に関連する史跡や記念碑が点在している。伊東マンショがローマで受けた熱狂は、400年以上の時を経た今もなお、日本とイタリアの文化交流の象徴として語り継がれている。彼の命日は、長崎の地で今も静かに記憶されている。