中部イタリア併合
中部イタリア併合とは、1859~1860年にかけて、トスカナ大公国やエミリア地方諸邦など中部イタリアの諸国が住民投票と外交交渉を通じてサルデーニャ王国へ編入され、のちのイタリア王国成立への道を開いた過程である。第二次イタリア統一戦争後、オーストリアの影響下にあった諸公国から君主が追放され、臨時政府がトリノ政府との連合と併合を求めたことによって進展した政治統合の一局面である。
背景:第二次イタリア統一戦争と中部諸邦
1859年、サルデーニャ王国とフランス第二帝政はオーストリア帝国と戦い、ロンバルディアを獲得した。この戦争はカヴールが主導した対外政策の成果であり、北イタリアにおけるオーストリア覇権を揺るがした。同時期にトスカナ大公国、モデナ公国、パルマ公国などの中部諸邦では、ナショナリズムとリベラルな運動が高まり、君主が逃亡し市民による臨時政府が樹立された。これらの政権は、分立状態を維持するのではなく、強力な国家への編入を通じて統一を達成しようとし、トリノのサルデーニャ王国に接近していった。
中部諸国の革命と住民投票
トスカナとエミリア地方では、臨時政府がサルデーニャ国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世の下での統一を目標に掲げた。1859年から1860年にかけて、トスカナ大公国、モデナ、パルマ、そしてロマーニャなどローマ教皇支配下の地方で住民投票が実施され、多数がサルデーニャ王国への併合を支持した。特に教皇直轄領の一部であった地域では、教皇権に対抗する世俗国家への傾斜が強く、ローマ教皇領の縮小を伴いつつ中部イタリア併合が進行した。このように、王朝間の取り決めだけでなく、国民投票という近代的な手続きが正当性を補強した点に特徴がある。
トリノ政府の政策とフランスとの外交
臨時政府からの要請を受けたトリノのカヴール政権は、ただちに併合を認めるのではなく、フランス皇帝ナポレオン3世との交渉を通じて国際的承認を取り付けようとした。1859年のヴィラフランカの和約では、ハプスブルク家諸公国の復位がうたわれていたため、フランスの同意なしには事態を進めにくかったのである。最終的に1860年のトリノ条約で、サヴォイアとニースをフランスに割譲する代償と引き換えに、トスカナとエミリア地方の併合が認められ、中部イタリア併合は国際的にも既成事実として承認された。
イタリア統一過程における意義
中部イタリア併合によって、北部と中部の大部分がサルデーニャ王のもとに統合され、後のガリバルディによる南イタリア遠征と合流するための地理的・政治的基盤が整えられた。中部を押さえたことで、トリノ政府は南部ナポリ王国との連結を図ることが可能となり、1861年のイタリア王国宣言へとつながった。また、これらの過程にはガリバルディら民族運動の指導者と、王政と現実外交を重視するカヴールとの協調・緊張関係が反映しており、王政的統一と民衆運動の折衷としてイタリア統一が形づくられたことを示している。