不動態化処理
不動態化処理とは、金属表面に厚さ1〜5nm程度のごく薄い酸化皮膜(不動態皮膜)を人工的に形成・強化し、耐食性を引き上げる表面処理である。対象の大半はステンレス鋼で、硝酸やクエン酸の水溶液に部品を浸し、表面に残った遊離鉄や汚れを溶かして取り除く。英語ではパッシベーション(passivation)と呼ばれる。米国ではASTM A967やASTM A380、航空宇宙分野ではAMS 2700が処理条件を細かく定めている。めっきや塗装のように別の物質を上に重ねるわけではないので、寸法はほとんど変わらない。
鉄が反応をやめる現象から始まった研究
濃い硝酸に浸した鉄が、ある時点から溶けなくなる。この現象は1790年に英国の化学者ジェームズ・キアが記録しており、1836年にはスイスのシェーンバインが「パッシブ(受動的)」と名付けた。同じ頃、ファラデーは表面にできた目に見えない酸化物が原因ではないかと考えている。工業的な意味を持つようになったのは、1913年に英国シェフィールドでハリー・ブレアリーが13%クロム鋼を開発してからである。ステンレスが普及すると、加工後に錆びが出る問題を硝酸処理で抑える方法が経験的に広まり、1996年にはASTM A967が独立した規格として制定された。
皮膜ができる仕組みと、処理しないと起きること
ステンレス鋼が錆びにくいのは、クロムを10.5mass%以上含んでいるからである。クロムは空気中の酸素と結びつき、自然に酸化皮膜をつくる。
ただし、切削や曲げ、研削の工程では工具や治具の鉄粉が表面に食い込む。快削鋼のSUS303やSUS416に含まれる硫化マンガン(MnS)も、表面に出ると弱点になる。こうした部分はクロムの皮膜で覆われないため、塩化物イオンに触れると孔食の起点になりやすい。酸による処理はこれらの異物を選んで溶かす。そのうえで鉄を優先的に溶出させ、皮膜中のクロム比率を高める。皮膜ができるときの反応は、おおむね次の式で表される。
2Cr + 3H2O → Cr2O3 + 6H+ + 6e−
X線光電子分光(XPS)で測ると、処理後は皮膜中のCr/Fe比が上がっていることが確認できる。医療機器や半導体の配管部材では、この比率を受け入れ検査の判断材料にする場合もある。
ASTM A967に見る処理液と条件
ASTM A967には複数の処理方法が並んでおり、鋼種や設備に合わせて選べるようになっている。代表的な条件を下の表に示す。
| 方法 | 液組成 | 温度 | 最短浸漬時間 | 主な特徴 |
|---|---|---|---|---|
| Nitric 1 | 硝酸20〜25vol%+ニクロム酸ナトリウム2.5wt% | 49〜54℃ | 20分 | マルテンサイト系や快削鋼の過剰な溶解を抑える |
| Nitric 2 | 硝酸20〜45vol% | 21〜32℃ | 30分 | 常温に近い条件で処理でき、オーステナイト系向き |
| Citric 1 | クエン酸4〜10wt% | 60〜71℃ | 4分 | 劇物に当たらず、排水処理が比較的容易 |
| Citric 3 | クエン酸4〜10wt% | 21〜49℃ | 20分 | 加温設備がなくても運用できる |
鋼種ごとの使い分け
SUS304やSUS316のようなオーステナイト系は、どの方法でも問題が起きにくい。SUS410やSUS420などのマルテンサイト系は、濃度や温度が高すぎると表面が黒く荒れる「フラッシュアタック」を起こしやすい。従来はニクロム酸ナトリウムを加えて抑制してきたが、六価クロムはRoHS指令などで使用が制限されている。そのため近年はクエン酸系へ移る動きが目立つ。
酸洗い・電解研磨と混同しやすい理由
いずれも酸を使って表面を整えるため、現場では呼び方が混ざりがちである。酸洗いは硝フッ酸などで溶接スケールや熱処理後の酸化物を除去する工程で、母材をμm単位で溶かす。電解研磨は電流を流して表面を数μm〜数十μm削り、光沢と平滑さを得る方法である。これに対し不動態化処理は母材をほとんど削らず、清浄化と皮膜の改質が目的になる。溶接部の焼け色(テンパーカラー)は不動態化だけでは消えないので、先に酸洗いを入れる必要がある。
発注・外注時に押さえておきたい実務
図面に「不動態化処理のこと」とだけ書くと、処理業者ごとに液や条件がばらつく。トラブルを避けるには、「ASTM A967 Citric 1」のように規格番号と方法まで指定するのが確実である。
前工程の脱脂が不十分だと、切削油が残った部分に酸が届かず、処理ムラの原因になる。すすぎ水の水質も見落とされやすい。塩素濃度の高い工業用水で仕上げると、せっかくの皮膜に塩化物が残ってしまう。
設備面で見ると、10%を超える硝酸は毒物及び劇物取締法の劇物に当たり、保管管理が求められる。窒素酸化物(NOx)の排気対策や排水処理の負担も大きい。自社内に処理ラインを持たない中小の加工会社では、クエン酸系を扱う専門業者へ外注するケースが多い。小物部品ならかご単位、大物ならkg単位で見積もられるのが一般的で、試験成績書を付けるかどうかで価格が変わる。
処理後に行う確認試験
処理がうまくいったかどうかは、見た目だけでは判断できない。ASTM A967では、次のような試験から用途に応じて選ぶ。
- 水浸漬試験:蒸留水に24時間以上浸し、赤錆の有無を確認する
- 高湿度試験:温度35℃・相対湿度95%前後の環境に24時間置く
- 塩水噴霧試験:ASTM B117に準じた5%塩化ナトリウム噴霧に2時間さらす
- 硫酸銅試験:硫酸銅溶液で6分間濡らし、遊離鉄による銅の析出を調べる
- フェロキシル試験:フェリシアン化カリウム溶液で青色反応を見る(ASTM A380)
硫酸銅試験はマルテンサイト系や快削鋼では誤判定が出やすいので、高湿度試験と組み合わせて評価することが多い。
医療・食品分野での位置づけ
外科用インプラントについては、ASTM F86が表面処理の手順を定めている。手術器具や食品プラントの配管では、洗浄や滅菌を繰り返すたびに皮膜が傷むため、定期的に再処理を行う施設もある。締結部品には国際規格ISO 16048があり、ボルトやナットを処理する際の参考にされる。こうした分野では腐食生成物の混入そのものが品質事故につながるので、成績書と処理ロットの記録を残すことが取引条件になっている。
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