下関戦争(四国艦隊下関砲撃事件)

下関戦争

下関戦争とは、列強(アメリカ、フランス、オランダ、イギリス)の軍隊は、下関海峡を通行不能とした長州藩と戦争状態に陥り、長州藩が敗北した戦争である。アメリカ、フランス、イギリス、オランダの四カ国から四国艦隊下関砲撃事件とも呼ばれる。元治元年(1864年)1864年8月5日、前年に下関海峡にて列強の商船を長州に砲撃されたが、その報復として列強の軍艦が、長州藩の砲台を砲撃した。イギリスの合図で始まったた砲撃は、約1時間、瞬く間に下関海峡東部の田野浦(門司側)と串崎(長府側)の各砲台が崩壊された。翌6日には連合軍の陸戦隊が上陸し、数日のあいだにすべての砲台が壊滅的被害を受け、 弾薬などは海中に投棄された。

高杉晋作

高杉晋作

目次

幕府側対応

1864年2月、幕府の代表として勝海舟坂本龍馬を連れて長崎で交渉を行っているが、成果なく下関戦争が勃発した。

戦力状況

長州側は主力を禁門の変のため京都へ派遣していたため、大砲100門、兵隊2000であった。一方、4カ国連合は大砲255門、兵員5000であった。わずか3日間で2500発の砲台を受け、長州の砲台はすべて潰された。

敗戦交渉

列強の圧倒的な武力を前に長州藩は戦意を喪失する。8日には高杉晋作を正使とする大使を連合国側に送り、敗戦交渉を行う。長州との交渉の末、列強は、14日には列強とのあいだに停戦協定を締結した。

講和会議

講和会議には高杉晋作が担当。通訳の井上馨伊藤博文が同席した。イギリス、フランス、オランダ、アメリカの4カ国は彦島の領地租借を要求してきたが、かって上海が領地租借になった後に中国は植民地化したことを念頭に、鎧に陣羽織の姿で現れ、『古事記』を引用し、神から与えられた土地だという奇異な理由で要求を拒否した。

古事記演説

長州藩の高杉晋作は上海に留学していた経験があり、列強の交渉を失敗すると、将来の植民地化は避けられないとした。列強は、彦島租借や300万ドルの賠償金を要求したが、高杉晋作は鎧に陣羽織の姿で現れ、『古事記』を引用し、神から与えられた土地だという奇異な演説することなど意味不明とも思える行動と、長州の士気の高さを見せることによって要求を拒否した。

アーネストサトウ

通訳としてアーネスト・サトウは連合国側にいた。アーネストサトウは、長州との戦いの後、むしろ長州を尊敬しているとすら書いている。列強は、下関の開港と300万ドルの賠償金を要求した。高杉晋作は、下関開港は認めたものの、賠償金については断固として拒否した。長州の砲撃は朝廷の命令であり、また幕府が外艦打払令を出しているとし、幕府に請求するように要求した。
これを見たアーネスト・サトウは、高杉晋作は今回の砲撃を利用して、自らの思想である開国を行いたいと考えていたようだ、と述べている。

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