ムハンマド=アリー|エジプト近代化を進めた開明的太守

ムハンマド=アリー

ムハンマド=アリーは、オスマン帝国の地方総督としてエジプトを支配し、近代的な行政制度と軍隊、産業を導入したことで「エジプト近代化の父」とも呼ばれる人物である。アルバニア系の出自をもち、ナポレオンのエジプト占領後の権力の空白を利用して権力を掌握し、国内改革と対外膨張を同時に進めた。その統治は専制的であったが、行政・軍事・経済など多方面にわたる改革によって、エジプトを地中海東部の有力な地域国家へと押し上げた。

出自とエジプト総督への上昇

ムハンマド=アリーは、マケドニア地方の港町カヴァラに生まれたアルバニア系の軍人である。彼は義勇軍としてエジプト遠征軍に参加し、フランス軍撤退後の混乱の中で、トルコ人軍隊、マムルーク勢力、エジプトのウラマーらの利害を巧みに調整しながら影響力を拡大した。やがてカイロの住民や宗教学者の支持を背景に、オスマン帝国スルタンから公式にエジプト総督(ワーリー)として承認され、事実上世襲的な支配の基盤を築いた。

権力の集中とマムルーク勢力の排除

エジプトにおける長年の支配階層であったマムルークは、ムハンマド=アリーの中央集権化を妨げる存在であった。彼は彼らを懐柔するふりをしつつ、カイロ城砦に招いたマムルーク有力者を一斉に殺害する事件を起こし、軍事・財政権を一手に掌握した。この徹底したマムルーク排除によって、地方権力に依存しない新たな官僚制と常備軍を基盤とする統治が可能となった。

軍制改革と近代的官僚制

ムハンマド=アリーは、エジプトを欧州列強に対抗しうる地域国家へと変えるため、軍制改革を最優先課題とした。徴兵制にもとづく歩兵部隊を編成し、フランス人教官を招いて西欧式の訓練や戦術を導入した。また軍の維持と拡張に必要な財源を確保するため、地方徴税権を国家に回収し、中央から派遣された官僚によって農村支配を行う仕組みを整備した。このような常備軍と官僚制の整備は、のちの近代化を進める非欧米地域の統治モデルとしても注目される。

農業政策と産業育成

綿花栽培の拡大

財政基盤を固めるため、ムハンマド=アリーはナイル川流域での綿花栽培を積極的に推進した。国家が灌漑設備を整備し、農民に綿花栽培を強制することで、綿花を国営独占で買い上げ、海外に高値で輸出したのである。これはエジプトを世界の綿花供給地の一角とする一方、農民にとっては貨幣租税と単一作物への依存を強める結果ともなった。

官営工場と経済統制

綿織物工業や造船所、軍需工場など、多くの官営工場が建設され、軍備増強と輸入代替を目指す産業政策が行われた。国家による独占貿易や価格統制は短期的には収入を増大させたものの、市場の柔軟性を欠き、やがて国際貿易の自由化が進むと競争力の低下を招いた。それでも、これらの官営工場は中東における初期の産業革命的試みとして評価される。

教育・文化政策とヨーロッパ留学

ムハンマド=アリーは軍事・行政改革を支える人材育成のため、医学校や技術学校を創設し、多数の学生をフランスなどヨーロッパへ留学させた。彼らは帰国後、翻訳局などで西欧の軍事学、法学、科学技術をアラビア語に移し替える役割を担い、エジプト社会に新たな知識体系をもたらした。この過程は、のちのアラブ文化復興運動や知識人層の形成とも結びつき、エジプトの知的環境を大きく変化させた。

対外膨張とアラビア・スーダン遠征

国内改革と並行して、ムハンマド=アリーは対外膨張政策を積極的に展開した。アラビア半島では、ワッハーブ派サウード家が築いた勢力を討伐するようスルタンから命じられ、その遠征を通じて紅海沿岸への影響力を強めた。さらにスーダン方面への征服を進め、金や奴隷、兵士の供給地として利用することで、軍事力と財政の一部を補った。

ギリシア独立戦争とシリア問題

ギリシア独立戦争の際、ムハンマド=アリーは反乱鎮圧と引き換えにクレタ島やシリア地方の統治権を要求し、エジプト艦隊はオスマン側として出兵した。しかし連合艦隊とのナヴァリノの海戦で艦隊を失い、その見返り獲得は不完全に終わった。その後もシリアをめぐりオスマン政府と武力衝突し、一時はアナトリア奥深くまで進軍してスルタンを脅かしたが、列強の仲裁により領土と権利は大きく制限された。

世襲総督権の承認とムハンマド=アリー朝

列強の外交的調停の結果、ムハンマド=アリーは広大な領土や艦隊を手放す代わりに、エジプト総督位の世襲権を正式に承認され、こうしてエジプトにムハンマド=アリー朝が成立した。この王朝はのちにスエズ運河建設や帝国主義時代の列強進出のなかで揺れ動きつつも、1952年の革命まで続くことになる。強権的な手法や農民への負担増大といった負の側面を抱えながらも、ムハンマド=アリーが築いた軍事・行政・経済の枠組みは、非欧米世界における国家建設と近代化の先駆的事例として位置づけられている。