ポーランドの独立
ポーランドの独立とは、18世紀末の分割によって地図上から消えていたポーランドが、1918年に主権国家として復活した出来事である。ロシア・プロイセン・オーストリアによる分割支配のもとで培われた民族意識と、第一次世界大戦による列強体制の崩壊、さらにアメリカ大統領ウィルソンの掲げた民族自決の理念が結びつき、ポーランド人は念願の国家再建を実現した。この独立は、東欧における国民国家形成の一環であると同時に、戦後国際秩序の再編を象徴する出来事でもあった。
分割と亡国からの出発点
18世紀末、ポーランド・リトアニア共和国は周辺のロシア、プロイセン、オーストリアに3度にわたり分割され、国家として消滅した。以後、ポーランド人はそれぞれの帝国の支配下で同化政策や弾圧にさらされながらも、言語・宗教・歴史教育を通じて民族的アイデンティティを守り続けた。19世紀前半には蜂起が相次ぎ、亡命知識人による政治運動や文化活動も展開され、亡国の民としての連帯感が次第に国民国家再建の思想へと結びついていった。
第一次世界大戦と独立の好機
第一次世界大戦が勃発すると、ポーランドの地はロシア帝国とドイツ・オーストリア=ハンガリーの戦場となり、ポーランド人は敵対する陣営の軍隊に動員されるという複雑な状況に置かれた。そのなかで、ピウスツキらは同盟国側にポーランド軍団を組織し、戦後の国家再建を見据えて行動した。一方、亡命政治家ドモフスキらは協商国側に働きかけ、ポーランド独立の必要性を訴えた。このように、戦争の帰趨に左右されない形で「いずれの陣営からも独立を認めさせる」ことが、ポーランド民族運動の大きな目標となった。
ウィルソンの十四か条と国際環境
1918年1月、アメリカ大統領ウィルソンは十四か条の平和原則を公表し、そのなかで「海への自由な出口を持つ独立したポーランド国家」の再建を明確に掲げた。これはポーランドの独立要求が国際的に承認されたことを意味し、戦後講和の基本方針として受け入れられることになる。ロシア帝国・ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国が相次いで崩壊するなかで、ポーランド人は空白となった権力の場を掌握し、国際的な承認と国内の実効支配を結びつける絶好の機会を得たのである。
1918年の独立と第2共和政の成立
1918年11月、ドイツ革命と休戦により占領軍が退却すると、ワルシャワではポーランド人勢力が実権を握り、拘束されていたピウスツキが帰国して国家元首として迎えられた。各地で乱立していた暫定政権や評議会は次第に統合され、ポーランド共和国、いわゆる第2共和政が成立する。新国家は議会制民主主義を掲げ、土地改革や行政制度の整備など、長期にわたる分割支配で異なる体制となっていた地域を統一するための政策に取り組んだ。
国境画定と周辺諸国との戦争
しかし、独立直後の最大の課題は国境の画定であった。西部ではドイツとの間で住民投票や蜂起が起こり、シレジアやポズナニなど工業地帯の帰属をめぐる争いが続いた。東部ではウクライナ勢力との紛争に加え、ソヴィエト=ロシアとの間でポーランド=ソヴィエト戦争が勃発し、ワルシャワ近郊にまで赤軍が迫る状況となった。1921年のリガ条約によって東方国境が確定し、戦後のヴェルサイユ条約体制の一部としてポーランドの領域と国際的地位が固まっていった。
多民族国家としての課題
独立ポーランドは、ポーランド人だけでなく、ウクライナ人、ベラルーシ人、ドイツ人、ユダヤ人など多様な住民を抱える多民族国家であった。そのため、少数民族の権利保障や自治要求への対応が常に政治問題となり、中央集権的な国家建設とのあいだで緊張が生じた。経済面でも、分割時代に異なる制度を持っていた地域を統一市場として再編する過程で混乱が生じ、社会的不満が政治対立を激化させることもあった。
独立の意義と北東欧の国民国家形成
ポーランドの独立は、単に1つの国家が復活した出来事にとどまらず、民族自決の理念に基づく東欧再編の象徴的事件であった。同じ時期に生まれたフィンランドの独立やバルト三国の独立とともに、帝国支配のもとにあった諸民族が自らの国家をもとうとする連鎖的な動きを示している。こうした独立の波は、戦間期ヨーロッパの国際政治に新たな緊張と可能性をもたらし、後の歴史展開にも大きな影響を与えることになった。