ニハーヴァントの戦い
ニハーヴァントの戦いは、642年頃に西イランのニハーヴァント近郊で起こったササン朝軍と正統カリフ朝(ラシードゥン朝)軍の決戦である。カーディシーヤの勝利とクテシフォンの陥落に続く遠征の帰結であり、アラブ軍が巧妙な機動でササン朝の大軍を陣地から誘い出して撃破した点で画期的であった。戦後、ハマダーン・レイ・イスファハーンなどイラン高原の中核都市が次々と開かれ、ヤズデギルド3世の退避が加速し、イランの政治地図は長期的に書き換えられた。アラビア語史料はこの勝利を「勝利の勝利(فتح الفتوح, Fath al-Futūh)」と称し、征服事業の転換点として強調する。
背景:ササン朝の動揺とアラブ遠征の連続性
7世紀前半、ササン朝は長期戦と内紛で国力が疲弊していた。636年のカーディシーヤの戦いで野戦軍が大打撃を受け、翌年クテシフォンが陥落すると、王権はメディア方面へ退き再起を図った。他方、正統カリフ朝側ではウマルの下で諸部族を統合し、クーファやバスラのようなミスル(軍営都市)に兵站と統治の拠点を整え、持続的な作戦展開が可能となっていた。こうした戦略的連続性の中で、ニハーヴァントの戦いは「最後の大決戦」として位置づけられる。
参戦勢力と指揮系統
正統カリフ朝軍は、現地指揮官としてヌウマーン・イブン=ムカリンが知られ、戦闘中に戦死したと伝えられる。配下にはフダイファ・イブン=アル=ヤマーンら歴戦の将が参加し、部族横断的な連合軍構成であった。ササン朝側は伝統的史料によればフィールーザーン(Piruzan)とムルダーンシャー(Mardanshah)らが動員を主導し、多数の重装歩兵・騎兵を擁したとされるが、兵力数値には誇張が含まれる可能性が高い。
戦場環境と初期布陣
戦場はザグロス山脈の支脈に囲まれた要地で、平坦地と峡谷が交錯する。ササン朝軍は防御に適した高地・陣城を基点にアラブ軍の消耗を狙い、正面決戦を回避しつつ機を窺った。一方、アラブ軍は軽快な騎兵・歩騎混成で接敵しつつ、敵を有利な地形から引き剥がす誘導策を重視した。
戦闘の経過:誘引と包囲の二段構え
ニハーヴァントの戦いの核心は、偽装退却とそれに続く反転攻勢である。アラブ軍は一部戦列を意図的に後退させ、追撃に乗じたササン朝軍を狭隘部へ誘い込んだ。敵が地形的優位を失うと、側面・後方からの圧迫を強め、近接戦で戦列を崩した。将の戦死や命令系統の混乱が広がると、軍は潰走に転じ、追撃で被害は拡大した。
偽装退却の機動
偽装退却はステップ戦術の典型で、軽装の前衛が接触後に秩序ある後退を演じ、追撃で伸びた敵前衛を分断する。ダストクラウド(砂塵)で視界が狭まる中、待機していた予備騎兵が要点を突き、歩兵が密集楯列に打撃を与えた。これによりササン朝側は重装の強みを活かす地形・隊形を維持できず、個別撃破されやすくなった。
ササン朝側の指揮混乱
ササン朝軍は多民族・多州の動員で規模を確保したが、統一的な指揮管制が脆弱で、偽装退却への対応でも判断が割れた。報告の錯綜と将の戦死が重なると、統率の糸が切れ、退却が総崩れに変わった。これが致命傷となり、戦場離脱は追撃の標的となった。
戦後の展開と歴史的意義
勝利後、ハマダーン・レイ・イスファハーン等の諸都市が連鎖的に制圧され、王ヤズデギルド3世は東方へ退避を続けた。正統カリフ朝はクーファやフスタートのようなミスルを運用し、ジズヤやハラージュの賦課体制を整備、イラン社会は漸進的に再編された。宗教的改宗は段階を踏みつつも、行政・軍事の枠組みは迅速に組み替えられ、やがてイスラーム世界の構造の中に組み込まれてゆく。史的にみれば、本戦はササン朝の野戦能力を回復不能の水準まで損耗させた転回点であった。
史料と叙述の問題
アル=バラズリーやアッ=タバリーといったアラビア語史料は本戦を征服史の頂点として描く傾向が強く、兵力や戦死者数は誇張される場合がある。年代についてもヒジュラ暦21〜22年相当の幅が見られる。近年の研究は、征服が戦後も長く続いた点を踏まえ、ニハーヴァントの戦いを「象徴的な決定点」としつつも、制度・人口・宗教の変化は長期波及の過程として捉える。総じて、ここでの軍事的勝利が政治・財政・税制の再編と結びつき、正統カリフ時代の国家形成を押し上げたことは確かである。
用語・地名・別称
ニハーヴァント(現イラン・ハマダーン州)は交通の要衝で、同地の決戦は「勝利の勝利(Fath al-Futūh)」とも呼ばれる。記録上の綴りには「Nihāwand/Nahāvand」などがあり、日本語史料でも表記ゆれが見られる。作戦運用の背景には、信仰と武の関係をめぐるジハード観や、アラブ軍の都市形成・補給網整備がある点で、より広いイスラーム世界の成立史の文脈に接続して理解される。
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本戦はクーファの兵站機能や移住政策とも関わるため、都市史の観点からはクーファの成立・拡張が重要である。
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指導部の意思決定は初期共同体の規範に依拠しており、前代の先例はアブー=バクル期の遠征運用に求められる。
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戦役の宗教的言説は、ときに「聖戦」概念とも結びついて伝承され、後代の記憶形成に影響した。
以上のように、ニハーヴァントの戦いは戦術的巧妙さと戦略的持続性が結節した局面であり、近隣都市ネットワーク・財政制度・宗教文化の変容を誘発した点に歴史的核心がある。