ドレッド=スコット判決|奴隷制を追認した米最高裁判決

ドレッド=スコット判決

ドレッド=スコット判決は、1857年にアメリカ連邦最高裁判所が下した判決であり、黒人奴隷やその子孫は合衆国市民になり得ないとしたうえで、連邦議会が準州における奴隷制を禁止する権限を否定したものである。判決は奴隷制を事実上全国的に正当化する内容であり、北部と南部の対立を決定的に激化させ、やがて勃発する南北戦争への重要な一歩とされる。

歴史的背景

19世紀前半のアメリカ合衆国では、西部への領土拡大が進み、新たに編入される地域を自由労働の地域とするか、奴隷労働を認めるかが政治的最大争点となっていた。南部には綿花栽培を中心とする綿花プランテーション経済が広がり、黒人奴隷労働への依存が強かったのに対し、北部は工業化と自由労働を重視する社会であった。この対立は、奴隷制を認める奴隷州と、これを禁止する自由州の政治的バランスという形で顕在化した。

このバランスを保つために、1820年にはミズーリ協定が成立し、北緯36度30分以北のルイジアナ割譲地では奴隷制を禁止することが定められた。しかし、領土拡大が続くなかで、この妥協は次第に揺らいでいく。1854年にはカンザスネブラスカ法が制定され、新たな準州で奴隷制の可否を住民投票に委ねる「人民主権」の原則が導入され、内戦前夜ともいえる流血の抗争が生じた。こうした状況のもとで、連邦と州の権限をめぐる州権主義の議論も高まり、その文脈の中でドレッド=スコット判決が下されることになる。

ドレッド・スコットの生涯と訴訟の経過

ドレッド・スコットは、南部ミズーリ州の白人医師に所有されていた黒人奴隷であった。主人は軍医として勤務する際、スコットを連れて、奴隷制が禁止されていたイリノイ州やウィスコンシン準州に赴任した。スコットは長期間これらの自由地域に居住した経験を根拠として、「自由地域に一定期間居住した奴隷は自由身分を獲得する」という慣行や州法に基づき、自らと家族の自由を求めて訴訟を起こしたのである。

訴訟はまずミズーリ州裁判所で争われ、初期にはスコット側に有利な判断も出されたが、その後の審理で覆された。最終的にスコット側は連邦裁判所に提訴し、訴えは連邦最高裁判所にまで持ち込まれた。ここで争点となったのは、スコットが合衆国憲法上の「市民」として連邦裁判所に提訴する資格を持つのか、また自由地域滞在の事実が身分の変化をもたらしたか、さらに連邦議会に奴隷制禁止立法の権限があるかどうかという問題であった。

連邦最高裁判所の判断内容

連邦最高裁判所多数意見は、当時の憲法解釈にもとづき、黒人奴隷やその子孫は建国当初から合衆国の政治的共同体に含まれておらず、したがって連邦裁判所に訴えを起こす資格を有する「市民」ではないと判断した。この時点でスコットの訴えは却下されるべきとされたが、裁判所はさらに踏み込んだ判断を示し、政治的論争を一気に司法判断に持ち込んだ。

  • 連邦議会は準州において奴隷制を禁止する権限を持たないとされ、1820年のミズーリ協定は違憲と判断された。
  • 奴隷は所有者の「財産」とされ、第5修正における適正手続きなくして財産を奪うことはできないと解釈された。
  • 自由地域への移動や一時的居住は、所有権たる奴隷身分を自動的に消滅させるものではないとされた。

このようにドレッド=スコット判決は、奴隷制を合衆国内で広く保護するきわめて保守的な憲法解釈を示し、連邦議会や自由州が進めてきた奴隷制制限の試みを根本から否定した点に大きな特徴がある。

判決への反応と政治的影響

判決は、奴隷制の維持・拡大を望む南部の政治家や奴隷所有者には歓迎されたが、奴隷制拡大に反対する北部世論には強い衝撃と怒りを与えた。とくに、新興勢力であった共和党は、奴隷制の西部拡大阻止を掲げていたため、この判決を激しく批判した。共和党の指導者たちは、最高裁が政治的に偏った判断を行い、奴隷制勢力の利益を代弁していると訴え、司法権のあり方そのものにも疑問を投げかけた。

この判決によって、合衆国の政治は一層分極化し、奴隷制を容認する南部と、これに反対する北部との妥協の余地は急速に失われていった。やがて1860年の大統領選挙で共和党候補エイブラハム・リンカンが当選すると、南部諸州は連邦からの離脱を決意し、武力衝突へと向かうことになる。こうしてドレッド=スコット判決は、奴隷制をめぐる対立を決定的段階に押し上げた判決として、アメリカ憲政史に深い影を落とすことになった。

アメリカ法制度史における位置づけ

南北戦争後、アメリカ合衆国憲法には第13条・第14条・第15条のいわゆる南北戦争修正が加えられ、奴隷制の禁止と法律の下の平等、市民権の保障が明文化された。これにより、黒人が市民資格を持たないとした本判決の前提は憲法自体によって否定されたことになり、のちの判例や法学説において、ドレッド・スコット事件は「誤った判決」の典型として扱われるようになった。

しかし、判決が示した人種観や財産権絶対視の発想は、その後も長くアメリカ社会に影響を残し、人種差別的な制度や慣行を正当化する論理として再利用されることもあった。その意味で、ドレッド=スコット判決は単なる歴史上の失敗例ではなく、司法が政治的・社会的な偏見をどのように法の名のもとに正当化し得るのかを示す負の教訓として、現在でも憲法学や歴史学の重要な研究対象となっている。