ドゥーマ|ロシア帝国の議会制度

ドゥーマ

ドゥーマは、1905年革命後にロシア帝国に設置された立法議会であり、ツァーリ専制体制の下に初めて導入された全国的な代表制機関である。皇帝が依然として強大な権限を保持しつつも、法律の制定や予算の承認についてはこの議会の同意が必要とされ、専制から立憲政体へと向かう試みを象徴する制度として位置づけられた。

成立の背景

ドゥーマ創設の直接の契機となったのは、日露戦争の敗北と、それに続く社会不安の高まりである。戦争の失敗はツァーリ政権の無能さを露呈させ、都市労働者・農民・知識人・少数民族の不満が一気に噴出した。1905年にはペテルブルクでの平和的請願行動が軍隊によって弾圧される血の日曜日事件が起こり、全国的なストライキと暴動が広がる。いわゆる第1次ロシア革命の波を受け、皇帝ニコライ2世は十月詔書によって立法議会の設置と市民的自由の拡大を約束し、その具体化としてドゥーマが構想された。

選挙制度と政党勢力

ドゥーマ議員は選挙によって選出されたが、その選挙制度は身分と財産によって有権者を区分する複雑な間接選挙であり、地主や都市の富裕層に有利であった。それでもなお、初期のドゥーマには自由主義的なカデット(立憲民主党)や急進的な農民政党である社会革命党、社会主義勢力の一部を構成するエスエルなどが進出し、皇帝に対して憲法の徹底や土地改革、言論・集会の自由を強く要求した。このため皇帝や官僚機構は議会を「危険な反体制勢力」と見なし、頻繁な解散と選挙法改正によって勢力の弱体化を図った。

第1次から第4次ドゥーマ

1906年に招集された第1回ドゥーマは、農民への土地再分配や政府の責任制など急進的な改革要求を掲げ、宮廷と鋭く対立した。そのため皇帝はわずか数か月で議会を解散し、続く第2回ドゥーマも再び短期間で解散される。1907年にはストルイピン首相の主導で選挙法が一方的に改正され、地主や富裕層の比重が高められた。その結果、第3回・第4回ドゥーマでは保守派や十月派が優勢となり、政府と妥協的な姿勢をとる議会へと性格が変化していった。

制度上の権限と限界

ドゥーマは形式上、法律の制定や国家予算の承認に参与する権限を持ち、帝国の上院にあたる国務会議とともに立法府を構成した。しかし政府高官や大臣は依然として皇帝にのみ責任を負い、議会に対する政治責任は負わなかった。皇帝はいつでもドゥーマを解散でき、緊急勅令によって議会を経ずに重要政策を実施することも可能であった。このように、ロシアの議会制度は表面的には立憲君主制に近づいたものの、実態としては専制体制の枠内にとどまり、議会主義は大きく制約されていた。

ロシア革命との関係

第3回・第4回ドゥーマの時期には、帝国の工業化や都市化が進む一方で、政治的自由の抑圧と戦時負担の増大が社会不安を再び高めていった。第一次世界大戦が始まると、議会内の自由主義者・中道派は「進歩ブロック」を形成し、政府の刷新と責任内閣制の導入を要求したが、皇帝はこれを拒否した。その結果、前線の敗北と後方の混乱への不満は、議会外勢力であるソヴィエトや労働者・兵士の運動に結びつき、1917年の二月革命へと発展する。二月革命の際、首都ペトログラードのドゥーマ議員は臨時委員会を組織して旧政権から統治権を引き継ぎ、臨時政府の母体となったが、同時にソヴィエトとの二重権力が成立したことで、帝政後の政治秩序も不安定なものとなった。

歴史的意義

ドゥーマは、ロシアにおける近代的議会制度の出発点であるとともに、その不完全さゆえに専制体制の矛盾をいっそう際立たせた存在である。立法権と行政府の責任をめぐる対立は、ツァーリ体制が部分的改革と抑圧の間で揺れ動いたことを示しており、その帰結として帝政は崩壊し、革命政権が誕生した。こうした歴史的経過は、立憲主義や政党政治がいかに定着しうるのか、また議会が社会運動とどのような関係を結ぶべきかという問題を考えるうえで、現在においても重要な事例となっている。